問い

「仏をたのむ」のと、「神をたのむ」のとは違うのですか。違うのならどう違うのですか。

答え

 「困った時の神だのみ」と言われます。例えば、平常神仏に手を合わせたことのない人でも、病気にでもなれば「はやく病気が治りますように」と神仏にお願いする気持ちにもなるのでしよう。

 ある有名な神社の絵馬札に、「どうか今度の入試には合格できるようにお願いします。これで三度目です。今度落ちたら、社殿(しゃでん)に火をつける」と書かれてあったそうです。とんでもない勝手な言い分です。

 私たちの気持ちには、どこまでも思い通りにゆきたいという思いがあります。これを自我(じが)といいます。この自我に立つならば、必然的にどこまでも都合のよい事はきて欲しいが、都合の悪いことはきて欲しくないという生き方となります。そして、自分の思い通りにゆきそうもない時、何かに頼って思いをかなえてもらおうとする虫のよい根性となるのです。

 「たのむ」対象が、神であろうが仏であろうが、「たのむ」こちらの心が問題でしょう。「部分的救済を願うは迷信(めいしん)、全体的救済を成就するは正信(しょうしん)」といわれます。病気は嫌ですが、たとえその病気が治っても縁がくれぱまた病気になるという不安・恐れからは解放されません。「病気が治りますように」と神仏に頼むのは、部分的救いを願うことであって迷信といわざるをえません。その心根(こころね)は、嫌なこと、苦しいこと、都合の悪いことからは逃れてゆきたいという根性でありましょう。親鸞聖人は、仏を「たのむ」という字に「憑」の字を用いられます。その「憑む(たのむ)」は「帰命(きみょう)」の意味で、全存在をあげて生命を生きるということであります。「たとえ法然上人にすかされまひらせて地獄におちたりとも、さらに後悔すべからく」という絶対的信頼であります。アミダ仏に帰命して生きる者となる時、人間自我のご都合主義を超えて苦しいことも、辛いことも、人生のすべてを受け取って生きていけるのであります。

 テレビで、ダウン症の子を持った母親の苦悩が放映されました。日一日と身心の能力が低下してゆく子どもをあわれみ、世を恨み、自分の運命を好転しようと悪戦苦闘の末、ついに心が開かれたのです。「私の子どもはダウン症です。しかし努力することを学びました。そして生命あることのスバラシサと人間のほんとうの優しさを教えてくれました。私はこの子どもと生活することに喜びと誇りを持っています」と涙ながらに語られました。これを聞いた多くの人々もまた、生きるほんとうの勇気が呼びおこされたことであります。

(本多惠/教化センター通信 No.43)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)