問い

真宗では、よく「聞法をせよ」と言われますが、なぜ聞法しなければならないのですか。

答え 人間は「幸福」を願い求めて生きているようです。健康で、お金があり、地位・名誉があり、家族に恵まれた華麗(かれい)な生活を願い、「ああなったら、こうなったら」と様々な思いの満足を追求して生きています。しかし、物があり、健康があり、どんな幸せがあっても、私たちは心の底から満たされたことがあったでしょうか。何がどう思うようになっても、どんなに好きな人と一緒にいても、真に満たされることがない。それが私たち人間ではないでしょうか。

この人間とは、この私とはいったい何なのでしょうか。私たちは、自分のことは自分が一番よくわかっているつもりで人生を始めたようですが、実は自分が自分でわからない。いったい自分は心底(しんそこ)どうなりたいのか。真に何を願って生きているのか。どうなればほんとうに自分が満たされるのか。この自分の根本がはっきりしないまま、欲望の満足を追い求めて今日まで空しく流れてきたと言わねばならないのではないでしょうか。この自分自身が問題になり、人生そのものが課題となって、法に問い聞いてゆくことが「聞法」(もんぽう)であります。法とは真実そのものを言い表わしています。法が言葉として表現されたのが真実なる教えであります。釈尊は、自己を問い求めることによって真実そのものである法に目覚め、それを教えとして説いてくださった方です。親鸞聖人は、その教えに全身全霊(ぜんしんぜんれい)でもって領解(りょうげ)し、納得された方だといえます。

親鸞聖人は、聞法とは真実教に我が身を聞いてゆくことであり、それはそのまま本願を聞いて信ずる身になることだと言われます。「本願」とは「ほんとうの願い」「根っこの願い」という意味です。私たちが欲望をもって追求している願いは枝葉(しよう)の願いです。その根っこに生命そのものが願っているほんとうの願いを言い当て、私たちの上に顕(あら)わにしてくださった真実なる願いを「如来の本願」と言われます。如来の本願に触れて、初めて人間は自分の願いに目覚め、「生まれた意義と生きる喜び」がわかり、今まで心底満たされなかった空しさが満足され、真に人間を成就する道を歩むものとなるのであります。

人間は、ただ「幸福」を求めているのではなく、その底に「真実」を求めているのであり、真実なるものに出遇うならば、むしろどんな苦労もいとわないという完全燃焼の生き方ができるのでありましょう。そのような自己を明らかにせよという生命の根源の要求に順う道が「聞法」なのであります。

(本多惠/教化センター通信 No.44)

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Last modified : 2018/02/28 17:35 by 第0組・澤田見(ホームページ部)