問い

俗に「門徒(もんと)もの知らず」といわれますが、どういう意味ですか。真宗門徒は何も知らなくてもよいということですか。

答え

 「門徒もの知らず」とは、真宗門徒の人は阿弥陀仏(あみだぶつ)を一向(いっこう)にたのみ、他の神仏をかえりみず、迷信俗信に惑わされず念仏いちずにシンプルな生き方をしているのを見て、他宗の人が「門徒は何も知らない」とさげすんで言ったものです。

 しかし、時には門徒側の人が「門徒もの知らずだから、何もしなくてもお念仏さえとなえておればよい」と横着の言い訳に使うこともあるようです。

 また、禅宗の信徒さんが「私たちは毎年お盆には、陰膳(かげぜん)を毎日手を替え品を替えて供えなくてはならないし、お茶を上げたり下げたり、おかざりもキュウリやナスで馬を作ったり迎え火、送り火もせんならん。正月は正月でお寺へ鏡餅を納めたり、面倒なしきたりがあって大変です。その点門徒は何もしなくてよいですね」と言われたりします。

 門徒の人は何も知らなくてもよい、何もしなくてもよいと言って横着をしてよいと言うことではありません。門徒には門徒の生活があります。それは、常日頃から聞法(もんぽう)にいそしみ、聞法を勤めとして毎日の生活を大切にしなくてはなりません。門法を通してこそ、理由もない習俗に振り回されることもなく、迷信俗信に惑わされることもなく、自信を持って明るく日々を大切に生きることができるのです。

 ですから「門徒、物忌み知らず」とも言われ、昔から門徒の人は日の良し悪しや方角の良し悪しを問題にせず、諸神他仏を祀(まつ)らず、霊や魔のたたりを恐れず、厄払いや祈願祈祷、占い等を頼まず、ただ念仏の一道に立って人間らしく毅然として生きてまいりました。

 真実の教えを聞き、その教えに深くうなずくことができれば、今日を生きていることのスバラシサがわかり、「日々是(こ)れ好日(こうじつ)」であって良い日、悪い日があるわけがありません。如来(にょらい)に遭い、如来とともに歩む人には、天の神、地の神を恐れる必要がなく、霊や魔の厄もたたるわけがなく、祈祷・占いを頼む必要がなくなるのです。

 だから「門徒もの知らず」とは、知ったことに執(とら)われず、振り回されず、常に自分の主体を確保して生きる意味から、真の「門徒もの知らず」になっていくべきかと思います。

 真宗門徒に限らず、人間すべからく真実なる教えを聞き、根拠もない迷信俗信に惑わされない生活を送りたいものです。

(本多惠/教化センター通信No)

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Last modified : 2015/03/02 18:12 by 第0組・澤田見(ホームページ部)