問い

他宗では、お盆に先祖が帰ってくるといい、施餓鬼(せがき)をしたり、お墓に参ったりしますが、真宗ではお盆はどうすればよろしいですか。

答え

 世間では、お盆の三日間には地獄の釜のふたが開いて先祖や亡き人の霊がこの世に帰ってくるといわれ、また餓鬼道(がきどう)に墜ちたひともお盆の三日間は食物が喉(のど)を通るともいわれ、「施餓鬼」というような行事が行われています。しかしこれは、仏教本来の「お盆」の意味ではありません。

 何もお盆の三日間に地獄の釜のふたが開くのでもなく、先祖の霊が帰ってくるわけでもないのです。私たちのご先祖は、そのような行ったり来たりする亡霊のようなものではありません。したがって真宗では、お盆だからといって「施餓鬼」をしたり、特別に大層なお勤めをしたりはしないのです。

 かといって、お盆にご先祖をお敬いする行事が無意味だというのでは決してありません。お盆に家族揃って仏前にひざまずいて先祖や亡き人を偲びつつ、賜った生命の尊さを確認することは意義のあることです。

餓鬼どもが 餓鬼に施こす うら盆会(ぼんえ)

 これは暁烏敏(あけがらす・はや)先生の句です。お盆に施餓鬼をして先祖供養をしたり、常にはあまり気にもしていないお墓に参る。一見美しい礼拝・供養の姿の奥にうごめく醜悪な人間の心情を、ギョロリと見つめられた暁烏先生の心眼に「餓鬼ども」の影が映ったのでしょう。

 「常に飢えたるもの」が餓鬼だと親鸞聖人は言われます。満足感がなく、欲心に追い回され、名利(みょうり)に動く心情は餓鬼そのものです。先祖を諸仏(しょぶつ)としてお敬いすることは尊いことです。しかし、先祖を餓鬼として供養したり、たたりを恐れて、慰霊をしたり、あの世から都合よく守ってもらおうと思う根性こそが、自分の欲心、名利心を満たし守ってもらおうとする餓鬼の姿であり、これほど先祖を侮辱することはありません。

 「盂蘭盆会(うらぼんえ)」は、目連(もくれん)尊者の母親が餓鬼道に墜ちているのを救うため、釈尊に教えられて法座を立てたことに由来しています。それは、目連自身が仏法を聞く縁に遇って、亡き母を餓鬼道に落としていた我が餓鬼の根性に気づかされる尊い仏縁でありました。

 お盆は、あらためて先祖・亡き人の声なき声に耳を傾け、我が身に目覚める聞法のご縁です。お寺で法座がある場合は、ぜひお参り下さることがもっとも尊い本来のお盆の意義であります。

(本多惠/教化センター通信 No.50)

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Last modified : 2015/02/22 23:37 by 第0組・澤田見(ホームページ部)