問い

周囲の人から、満中陰(まんちゅういん)は三ヶ月にわたってはいけないと言われましたが、人がいけないということはやはりしない方がよいでしょうか。

答え

 中陰が三ヶ月にわたると「四十九(しじゅうく)が三月(みつき)」で、「始終(しじゅう)、苦労が身につく」という単なるゴロ合わせから、避けた方がよいということになったもので、まったくなんの根拠もないナンセンスな迷いごとです。月の後半に亡くなれば中陰はみな三ヶ月にわたるものです。三ヶ月にわたらないようにしようと思えば、月の前半に亡くならねばなりません。そんなことに合わせてうまく死ぬわけにはいかないでしょう。

 その様な迷信ごとに迷わされないのが真宗門徒の麗(うるわ)しい生活態度であります。

 世間ではよく「かつぐ」と言って、病院でも四(し)と九(く)のつく部屋をはずしたりしています。四(し)は死(し)、九(く)は苦(く)に通ずるということから嫌うのですが、しかし英語ではフォーとナインという発音になり、実にナンセンスなこじつけだと言わねばなりません。

 また、自分は迷信だと思っていても、周囲の人々から言われると動揺します。自分の信念を強引におし通すと、間柄(あいだがら)を損ねるのではないかという思いもあり、もし強引に通して不都合が起きては困るという思いも動きます。

 しかし、迷信は迷信、正信(しょうしん)は正信と明確に見極める眼(まなこ)が大切であります。それは、何を根拠にして生き、何を根拠に判断するかということです。仏(ぶつ)の教えは、明確な根拠を持たない人間の勝手な考え(妄見(もうけん)、邪見(じゃけん))に執(とら)われている迷いのあり方に気づかしめる正しい智慧です。そのことによって真実の人間の主体性を取りもどさしめるものです。正しい智慧と根拠によって、愚かな迷信に惑わされることなく自信をもって生きたいものです。

 世間では、真実の教えによって生きている人ばかりではありません。かついだり、日や方角の善し悪しを気にしたり、霊や悪(あく)因縁(いんねん)や厄を怖れたり、様々な迷信に執われていることがむしろ常識になっているようです。人が親切で忠告して下さる好意は有難くいただいて、その上で正しい教えに基づいてよく話し合い、心から納得していただくことが大切です。そのことによって、迷信は迷心(めいしん)と気づき、迷信を打破して明るい毅然とした生き方を表明していくことが、真実の教えに出遇(であ)い、正しい智慧と根拠に立って生きる念仏者の使命であると思います。

(本多惠/教化センター通信 No.51)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)