問い

真宗では、「南無阿弥陀仏を称(とな)えよ」と教えられますが、なぜですか。、また、口に出して称えなくても、心の中で称えておればよいのではありませんか。

答え 結論から申しますと、「我が名を称えよ。親の名を呼べ」ということが、「如来の本願(真実の願い、呼びかけ)」だからであります。だから真宗の教えは、「本願を信じ念仏申さば仏に成る」ということにつきるのです。親鸞聖人は、「念仏成仏これ真宗」と端的に仰せられています。

「我が名」とは「南無阿弥陀仏」これは阿弥陀仏の名号(みょうごう)(名前)です。「阿弥陀仏」とはすべてのものを真実・平等に生かしている生命の親であり、「名号」はその真実の「名のり、さけび」なのです。すなわち「南無阿弥陀仏」は、「我れをたのめ。我れにまかせよ。我れに帰れ」との真実なる親の名のり、呼びかけであります。この親の名を呼ぶところに、私たちは親の真実の出遇(であ)うのであります。

「名」という字は「夕」と「口」の合字で、「夕」は夕方、夕暮れ時であり、闇の暗さを表し、「口」は声に出して呼ぶことを表しています。暗闇の中では、眼はきかず、口に呼ぶ声だけを聞くことが頼りです。すなわち「名号」は、無明煩悩(むみょうぼんのう)に覆われた暗闇の人生の只中に、呼び声となって真実に目覚ましめんと働かれる如来の姿なのです。

また、母親の命日に仏前にひざまづき合掌する時、ありし日の母親の面影や言葉が懐かしく思い起こされ、思わず「お母さん」と声に出てくる経験があります。「心うちにあれば、色おのずから外に現る」で、心が深く動かされれば自然に声が出るのでありましょう。

親鸞聖人は「南無阿弥陀仏を称えることは、阿弥陀仏を讃嘆(さんだん)することであり、自分の罪業を懺悔(さんげ)することであり、同時に発願(ほつがん)の表現である」と仰せられています。

阿弥陀仏のお心、即ち本願にうなずくことにより、仏を讃(ほ)め嘆(たた)えずにはおられなくなる。本願とは、すべての人々と共に本当にスバラシイ人生を送ってくれという願いです。ややもすれば、私たちはその願いに背(そむ)いて「自分さえ良ければ」という思いに陥る。自分勝手なエゴの思いは、現代の公害汚染をはじめとする様々な問題を引き起こす根っこの無明煩悩(むみょうぼんのう)です。そのことに気づいた時、「懺悔」が生まれ、「申し訳ない」という懺悔に立って、自ら「発願」という、共に真実なる教えに生きようと立ち上がるのです。この「嘆仏(たんぶつ)、懺悔、発願回向(えこう)」という内容を持った言葉が、ひと言でいえば「南無阿弥陀仏」であり、この思いが真に迫った時、思わずお念仏が声に出るのは自然の道理ではないでしょうか。

(本多惠/教化センター通信 No.52)

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Last modified : 2018/12/13 17:13 by 澤田見