問い

「他力」ということは、世間では悪いことのように言われますが、真宗ではどういうことなのですか。

答え ある先生が、PTAの講演会で「私たちは自力で生きているように思っているが、事実は他力によって生かされているのです」という話をされました。
三十歳くらいの女性が「他力で生かされていることを証明してください」と質問されたそうです。
先生は「証明しましょう」と言われ、「皆さん、私が時計を見ていますから、今から一分間目を閉じて胸に手を当てて静かにしていて下さい」と言われました。

「はい目を開けて下さい。他力がわかりましたか」と言われたが、みんな「わかりません」と答えた。先生は「それではもう一度お願いします」と言われたので、もう一度目を閉じて胸に手を当てて一分間が過ぎました。

「わかりましたか」
「わかりません」
「手を当てた胸の中で何か動いてはいませんでしたか」
「心臓が動いていました」
「そうでしょう。それではもう一度、一分間その心臓を止めてみて下さい」
止められるはずはありません。みんなキョトンとした顔をしていましたが、そのうちに笑い出したそうです。

人間は自分でものを判断し、自分の努力で生きているつもりでいますが、その全体が思いに先立ってすでに生かされているのでしょう。
心臓の鼓動ひとつ、自分の思いで動かすことも止めることもできない。
宇宙いっぱいの深甚無量(じんじんむりょう)のおかげ様の働きによって、今の私の一息、一息が成り立っているのでしょう。

私たちの生命は、人間が造り出したものではない。生命は、広大な無限のお働きによって賜った尊厳なものであり、絶対的なものだといえましょう。
死刑廃止が叫ばれているのも、絶対的な生命を、相対的な人間の判断で扱うことを否定しているからです。これは人間の越権行為であって、いかなる理由があろうとも許されることではないでしょう。

親鸞聖人は「他力というは、如来の本願力なり」と教えられます。絶対無限の他力の働きによって生かされている生命には、ただ意味なく生かされているのではなく、願いが掛かっていると言われるのです。「如来の本願力」とは「生命の親の根本の願い」ということで、どんな生命も「生まれた意義と生きる喜び」を見出して生きてほしい、「生まれてよかった。生きることはスバラシイ」といえる生き方にせずにはおかないという生命の根元の願いが働いているということです。

私たちは、如来の本願の喚(よ)びかけ(本願他力)に目覚めてこそ初めてこの人生を主体的に受け止めて真に自身の力を尽くしていけるのです。

したがって、「他力」とは世間で言われるような「他人の力に頼る」というような意味ではまったくありません。

(本多惠/教化センター通信 No.60)

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Last modified : 2015/02/15 9:53 by 第0組・澤田見(ホームページ部)