問い

宗教なしにりっぱに生活している人がいるのに、どうして宗教が必要なのですか。

答え

 お釈迦さまは、一国の王子として生まれ育った人ですが、29歳で出家されました。その動機は「老・病・死を見て世の非常」を痛感されたからです。それまでの大路としての生活は、知能・体力に恵まれ、地位・名誉・財産は保障され、美しい妻。後継ぎの子ども・両親やお付きの人びとに囲まれた何言うことのない生活であり、将来は転輪王(てんりんおう)の如きりっぱな王になられるに違いないお方でした。しかし、その生き方は「滅びの道」と仰せられて、すべてを捨てられたのです。「滅びの道」とは、遅かれ早かれ老・病・死の前に、すべては空しく滅していくに過ぎない生き方ということでしょう。

 「生は偶然、死は必然」と言われます。いかに物忘れのひどい人も死に忘れた人は一人もありません。その死を前にした時、生涯築き上げてきた地位も名誉も財産も、打ち込んできた事業も学識も経験も、最愛の妻や子も、何ひとつ当てになるものなく一切はまったく色あせたものとなります。

 その死を自覚した時、「みんな一度は死ぬのだから仕方がない」とあきらめるか。「そんなことクヨクヨ考えても仕方ない」とごまかすか。悩んで悩んで悩み貫いてノイローゼになるか。いずれにせよ、だれしも避けることのできない根本問題であります。

 やはり人間だれしも必ず終わりのある人生であるならば、死を見据えながら死を超え、死の一瞬まで真に生き切って、尊厳なる死を迎えたいと心の真底では願っているに違いないのでありましょう。その人間の至奥における真底の問いに促され、真実に生きる道を求めてお釈迦さまは出家せられたのであり、ここに万人が真実の宗教を求めざるを得ない理由があります。

 宗教とはいっても、真実なる宗教もあれば、まちがった宗教もあります。まちがった宗教とは、人間のエゴイズム(自己中心的考え)を満たそうとするものです。自分さえ良ければ、自分たちさえ幸せであればと願う宗教ほど非人間的なまちがった宗教はありません。

 真実なる宗教は、個人の生涯に尊厳を見出さしめると同時に、他の存在との間柄を生きることの大切さとスバラシサを教えます。地球規模で生命の危機が叫ばれている今日、個人的幸せやりっぱさのみを追求してはいられません。

 真実なる宗教を聞くことによって、生活の真の拠り所が見出され、必ずやってくる死を超えて帰する世界がはっきりし、生命ある限り生き活きと生きられると同時に、他の生命との連帯を深めながら「共なる世界」を確かめ共感して生きる。これこそほんとうの意味での「りっぱな生活」ということでしょう。

(本多惠/教化センター通信 No.62)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)