問い

時たま、世の中が厭になって、「フット」死にたくなる時があるのですが、自殺をしたら死後どうなりますか。

答え

 おっしゃる気持ちはよくわかります。世の中は、決して自分の思うようには事が運ばないものです。「死にたいと思った時、即座に死ねたら、人類はとうの昔に滅亡しただろう」と言った人があります。ということは、ほとんどの人が「死んでしまいたい」と思った時があるということでしょう。

 お互に自殺の経験はないまでも、身近にもろもろの事情で自殺の道を選んだ人も何人かおられます。「仏教では自殺をどのように教えますか」とよく尋ねられます。宗教によっては自殺を誡(いまし)め、自殺を罪悪だと決めつけるむきもあります。

 仏教では、自殺を罪悪だとか、自殺をしたものは葬式をしないとか、自殺者を出すような家庭は呪われているなどとは教えません。善悪で判断すること自体、越権的考えでしょう。仏教に生きる人は、自殺する必要のない人生を見出すに違いありません。

 親鸞聖人が八十八歳の時のお手紙にこんなものがあります。

 なによりも、去年今年(こぞことし)、老少男女(ろうしょうなんにょ)おおくの人びとの死にあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし生死無常(しょうじむじょう)のことわり、くわしく如来の説きおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。まず善信(ぜんしん)(親鸞)が身には、臨終の善悪(ぜんまく)をばもうさず。信心決定(しんじんけつじょう)のひとは、うたがいなければ、正定聚(しょうじょうじゅ)(必ず浄土に往生するともがら)に住することにて候うなり。

 このお手紙は聖人が晩年京都におられた時、関東の同行衆(どうぎょうしゅう)のようすを聞かれてのご返事です。当時の関東地方は、疫病や飢饉のために、幼児が死んだり、病気で苦しんで愚痴を言うて狂うように死んだり、殺人や自殺が横行して、まさに此の世の地獄の相を呈していたようです。「臨終の善悪(ぜんまく)を申さず」とは、生きることも思い通りにならないように、死にようもさまざまであって人間の思わくを越えたものである。だから生死のことは如来にまかせて、賜った生命(いのち)を大切に生きましょうとのお心かと思います。

 一回かぎりの人生です。だれかに代ってもらうこともできない大切な人生です。とすれば、くり返す必要のない一日一日を生き、だれに代ってもらう必要もない私自身の人生を大切にして生きようではありませんか。

(本多惠/教化センター通信 No66)

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Last modified : 2017/02/28 20:34 by 第0組・澤田見(ホームページ部)