問い

最近「脳死」や「臓器移植」が問題になっていますが、仏教ではどのように考えるのですか。

答え

 従来は「死」については「三徴候死(さんちょうこうし)」ということが言われています。「呼吸の停止」「脈拍の停止」そして「瞳孔の散大」です。その時点から、体温を失い、形を保たなくなり(腐敗が始まる)、人間が遺体(物体)となるわけです。これが自然の死でありましょう。それを「脳死」は、人工的な機械の助けによるものであっても未だ呼吸をし、体温を保ち、生命活動を保っている人を、脳が死んだということで死者と認めるということは、人間の情としても難しいことではないでしょうか。

 大体、「脳死」が問題になり、死の判定を論議され出したのは、医学の発達によって生体臓器移植が可能になったことによるものです。一刻も早い、生きた臓器が必要になってきたからです。

 しかし、生も死も人間の思いや予想を超えた不可思議な生命の働きです。それを人間の判断で決定しようとするところに越権があるのではないでしょうか。

 人によっては、臓器を提供することは人類愛の表現だといわれます。もし他人に対して「もうこの人は死ぬだけだ。最後に世のために役立つことは、この人の臓器を臓器不全で苦しんでいる人に提供することだ」と言って、それを断ると人類愛に欠けるかの響きをほのめかすとなると問題は深刻です。それが制度化されるとなると、体制化された社会の中では必然的に上司の人が下司の人に臓器提供を強要したり、あるいは義理や人情で断れないことにもなるでしょう。そこには、賜った生命の生と死を尽くして人生を全うしたいという人間の尊厳性を侵しかねない問題をはらんでいます。

 さらには、無脳症といわれる生まれつき大脳を欠損した子どもを臓器提供者にしようというに至っては、何をか言わんやと言うべきです。よしんば「自分は脳死で死を決めてもらって結構。利用できるものは何でも利用してください」と言うことは自由でしょうが、しかし見守る人に対して脳死を強要することにはならないでしょうか。死は自分の問題であると同時に他者の問題、即ち自分を見守り、取りまく人たちの問題でもあります。決して個人の意志のみで決められるものではないでしょう。

 問題は、お互いに人間としての尊厳を侵さず、侵されず、賜った生命を生き切り、死をしに切る。そういう人間の尊厳性を認め合うような社会の実現が基本的に大切なことではないでしょうか。

(本多惠/教化センター通信 No.68)

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Last modified : 2015/02/10 0:57 by 第12組・澤田見(ホームページ部)