問い

お勤めの後に、「お文(ふみ)」が読まれますが、言葉がどうも古めかしく、現代に合わないような感じもしますが、「お文」は読まないといけませんか。

答え

 「お文」は蓮如上人(1415~1499)のお手紙です。個人に宛てられたものもありますが、「講」(聞法グループ)宛のものも多くあります。いずれも、真宗の肝要を簡明に表し、話では聞き違えることもありますので、文章にしてくり返しくり返し読んで信心を確認するよう書かれたものです。それを80通にまとめたものが現在拝読されている「お文」であります。

 蓮如上人当時から今日に至るまで、「お文さま」と呼んで大切にされ、親しまれてきたものです。お寺をはじめご門徒の家庭においても、人々が集まった時、お勤めの後で拝読して共に拝聴したり、あるいは一人静かに拝読したりして、蓮如上人を偲びつつ如来の本願に心の耳を傾けてきたのです。

 ところが、蓮如上人は約500年前に亡くなられた方です。従って文章も当時のままですし、現代には通じにくい表現も無いとはいえません。しかし内容は実に深く、簡潔的確で、非常に具体的に書かれていますので、心して読めば深い味わいがあります。私たち真宗門徒の家庭では、唯一身近なお聖教(しょうぎょう)として朝夕の勤行(ごんぎょう)の際に必ず拝読し続けられてきたのです。

 近年になって「お文」に代わる現代に通じ易い拝読文(はいどくもん)がないだろうかと言われて久しいのですが、「お文」に代わる決定的なものが出てきません。何を申してもあれほど重みのある格調高い文章で、浄土真宗の要を表現することは、人間わざではないとすら言えましょう。

 しかし、拝読文は「お文」に限られたものではありません。要は浄土真宗に触れ、人間の尊厳性に目覚めるよりよい御縁となるものでしたならば、他のものでもよいでしょう。現に心ある方々の間で、「歎異抄(たんにしょう)」とか、先輩の書かれたスバラシイ文章を拝読しておられるようです。

 ただ心得ておかねばならないことは、目先のより好みで短絡的に思いつきのものを読むことは慎まねばならないでしょう。親鸞聖人・蓮如上人の願いに応じ、如来の本願が響いてくる内容の文章を拝読することが大切なことかと存じます。

(本多惠/教化センター通信No.72)

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Last modified : 2015/02/20 0:22 by 第0組・澤田見(ホームページ部)