問い

『お文(ふみ)』に「後生(ごしょう)の一大事を心にかけて」と何度も出てきますが、死後の救いを願うことなのですか。

答え 蓮如上人は、どくに「後生の一大事を心にかけて」と繰り返し教えられます。後生とは「後世(ごせ)」ともいわれ、今生(こんじょう)・現世に対して言われる言葉です。

「仏教では、後生、後生といって死んだ先のことばかり言うから若い人に嫌われるのだ。もっと現実的に、生きている現在のことを教えなくては現代に通用しない」とよく言われます。
確かにその通りですが、それでは「死んだらおしまいだ」と言って、ほんとうに現在を安心して生きていけるのでしょうか。
この人生が「旅」だとします。この人生の行きつく先はどこでしょうか。真っ暗な死の闇の世界で終わるのでしょうか。私たちが外国旅行に出かけ、めずらしい風景や食べ物をいただき、楽しく過ごしていても、やがて旅行が終わって帰っていく国と家庭が無かったらどうでしょうか。楽しく、安心して旅してはおれないのではないでしょうか。

「後生の一大事を心にかけよ」とは、人生の旅を終えて安心して帰っていくことのできる世界、魂の故郷が明らかになっているかということであります。決して、この世は苦しい辛いところだから、死んでからいい世界に生まれて幸せになることを教えるのではありません。帰るべき世界がはっきりすれば、ただ今の現在を安心して、精いっぱい喜びの人生として生きられるのであります。

この人生の旅は必ず終わります。しかもいつ終わるかわかりません。明日終わるかも知れない。そうすれば、後生は遠い先の話ではなく、今日のただ今に来ているのでありましょう。「後生」とは「最後の生」という意味だと教えてくださった人があります。実はだれにとっても、今日、ただ今が「後生」、即ち最後の大切な一瞬一瞬の時を生きているのでありましょう。もう後の余裕がないという「無後心」、セッパつまった生死(しょうじ)の厳頭に立たされた自覚でありましょう。

私たちは、まだまだ後があるという「有後心(うごしん)」に立って生きていますから、今の生き方がなまぬるいのでしょう。死を今の足下に自覚した時、初めて大いなる生命(いのち)のはたらきに触れて、生きていることの有難さ、スバラシサに目覚めて、私たちの生命が生き生きと輝き出すのでありましょう。私たちの人生に逃れることのできない老・病・死を常に足下に見据えながら、帰るべき世界を明らかにする。そこにほんとうの意味で「現在の生」を大切に生きることになるのでしょう。

(本多惠/教化センター通信No.73)

Pocket

Last modified : 2015/02/15 9:56 by 第0組・澤田見(ホームページ部)