問い

毎朝毎晩、お仏壇の前でご先祖様と阿弥陀様に「今日一日無事でありますように」と言って手を合わせていますが、いけませんか。

答え

 真宗門徒の生活は、朝夕仏前に座し、合掌礼拝することが基本姿勢であります。ですから、阿弥陀仏を御本尊とし、ご先祖の法名(ほうみょう)をお掛け軸として安置されてあるお内仏(お仏壇)の前で、毎朝毎晩手を合わせ礼拝されることは大切なことです。しかし、合掌礼拝するその気持ちについては考えてみる必要があります。

 だれしも幸福な生活を望まない人はないでしょう。不慮の災難や困ったことのない平穏無事を願うのは当然のことでしょうが、真実の宗教は、そのような私の思いに応えてもらったり、守ってもらったりするためのものではありません。真実の宗教は、そのような「私の都合のよい幸せ」しか求めることのできない自分の姿をむしろ「迷い」のあり方と気づかしめ、もっと広大なご恩の世界に生かされてある真実の自己に出遇わしめ、目覚ましめる教えであります。

 一般に「神様・仏様」といえば、「幸せになりますように」「無事安穏でありますように」という私の願いに応えてくださるもののように思いますが、いくらお願いしてもしなくても「成ることは成るし、成らないことは成らない」のであります。そればかりか、自分の幸せを満たそうと神仏に注文することは、自己中心的なエゴイズムではないでしょうか。「隣の家が幸せになりますように」と願って手を合わすでしょうか。そんな人はほとんどいないと思います。

 人間が考える幸福というものは、本来的に利己主義であって、自分の幸せを求めれば求めるほど他人を排除していく質のものでしょう。そのような、自分では気づかないエゴイズムを照らし出し、気づかせてくださる働きこそが仏様であります。

 親鸞聖人は、合掌礼拝する気持ちを次のように言われます。

南無阿弥陀仏をとなうるは、仏をほめたてまつるになるとなり。南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち無始よりこのかたの罪業(ざいごう)を懺悔(さんげ)するになるともうすなり。南無阿弥陀仏をとなうるはすなわち安楽浄土に往生(おうじょう)せんとおもうになるなり。また一切衆生にこの功徳をあたうるになるとなり。(尊号真像銘文)

 お念仏を申すことは、「嘆仏(たんぶつ)」「懺悔」「発願(ほつがん)」することになるのです。「自分だけの幸せ」を求めていた我が身の罪が懺悔せしめられ、おのずから一切衆生と共に生き合い助かっていく世界を願う身に育てられていく働きが「お念仏」であります。
 朝夕「無事平安を祈る」心を翻して、お念仏を申しつつそのお心を開いていってください。

(本多惠/教化センター通信 No.76)

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Last modified : 2017/02/28 20:30 by 第0組・澤田見(ホームページ部)