問い

お通夜では、どのような心持ちで過ごせばよいでしょうか。

答え

 愛しいかけがえのない身内の人を亡くされたご遺族の衝撃とお悲しみは、言葉では表せないものと存じます。また、その悲しみに浸っている間もなく、葬儀の段取りに慌ただしく忙殺されていかねばならない事情の中で、「お通夜」は一息つく最初の仏事であります。単に、弔問者の接待、応対や葬儀の準備等に追われ、形式だけで終わってしまうのではなく、身近な人の死を真正面から受け止め、ご生前の遺徳を偲ぶと共に、この厳粛な人生の事実を通して語りかけてくるものに心の耳を傾けていかねばなりません。

 死は「無言の遺言」だと言われます。また亡き人は、私達に生命をかけての「体説法」をしてくださっているとも教えられます。先立っていかれた方は、語りかけても、もはや肉声でもっては何も応えてはくれません。しかしそのお姿からは無言の教えが響いてまいりましょう。

 それはまず、この世の無常の道理を身をもって教えてくださっているのでありましょう。生まれた者は必ず死ぬ、これがこの世の道理です。しかもその死はいつやってくるかわからない。老いた者が先で若い者が後とは限らない老少不定の境です。この世の全てのものが念々刻々に移ろいゆく無常の世界であり、私自身もその例外ではありません。

 亡き人は「お前も必ず死ぬぞ」と、忘れている私の身の事実を呼び醒ましてくださっているのでありましょう。人は死ぬことはわかってはいても、私だけは死なないつもりであります。

 「人が死ぬとは思うていたに、俺が死ぬとはこいつはたまらん」と歌った人もあるように、「私の死」となれば、居ても立ってもおられないはずです。また私の足元の死を自覚することによってこそ、「今生きている」ことのただごとでないことが知らされ、同時に「いつ死んでも悔いのない今を生きているか」と根底から問われてまいります。死を前にしてこそ、私の人生を他人ごとにして生きていた日常性が破られ、ほんとうに私自身の生を問うという、文字どおり地に足の着いた生き方が始まるのではないでしょうか。

 お通夜とは、夜を徹して亡き人の遺体を見守るという意味もありました。今日では肉体との最後のお別れを惜しむ意味もあるようですが、そのことを通して何よりも大切なことは、亡き人が生命をかけて、全身全霊で叫んでおられる、まさに「生命の声」を聞くことであります。それが抜ければ、亡き人の死を無駄にすることになりましょう。あくまで亡き人を偲びつつ、心の耳を傾け、わが身を問いつつ心静かにお念仏を申したいものです。

(本多惠/教化センター通信 No.82)

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Last modified : 2017/02/28 20:28 by 第0組・澤田見(ホームページ部)