問い

中陰の間の供養は、どのような心掛けですればよいでしょうか。

答え

 「朝(あした)には紅顔(こうがん)あって夕べには白骨となれる身なり」「野外におくりて夜半(よわ)のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり」と蓮如上人は仰せられます。今の今まで元気でおられた方が、もうすでに人間の姿を留めることなく白骨のみとなり、小さな骨壺の中に収まってしまっている。

 まことに、身近な人の死に遇ってみて、はじめて私たちはこの世の無常の事実、人間のはかなさをしみじみと感じさせられることであります。どれだけお金を持っていても、どんな盛大な事業を手がけていても、どれほどの地位と名誉を得て、ほしいままの権勢を誇っている人も、また恵まれた人間関係の中で幸せに浸っている人も、ひとたび無常の風きたりぬれば、ことごとく空しくこの世から消え去ってゆかねばなりません。そのことをまた「まことに、死せんときは、かねて頼みおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあいそうことあるべからず」と、私たちがこの世において頼みとしているもののすべてが死の前には間に合わないことを教えられています。

 私たちはいったいどこからやって来て、どこへ去ってゆくのでしょうか。この世とはいったい何でしょうか。「私が、おれが」と言っているこの私とはいったい何でしょうか。死を前にしたとき、今までわかっていたつもりのすべてがわからなくなり、足もとから私自身の生のありかたが問われてまいります。

 死によって滅び去っていくものを頼みとして生きていれば、当然死が恐ろしく、生が不安であるに違いない。私たちはこの無常の世にあって一刻も早く永遠常住なる生命に目覚めて生きる道を明らかにしなければならないのではないでしょうか。生がそれに依って支えられ、死がそこへ帰してゆくような永遠・真実なる生命に。

 にもかかわらず私たちは、今すぐにでも解決しなければならない足もとの大切なこと(即今(そっこん)の事(じ)・一大事)を忘れて、急がずともよいこの世の見せかけの幸せ(不急の事)をのみ争い求めています。

 蓮如上人はこの問題を「たれの人も早く後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念仏もうすべきものなり」と厳しく教えてくださるのでありましょう。

 中陰の仏事とは、亡き人の追善供養ではなく、亡き人から語りかけて下さる「無言の説法」を真剣に聞き、一人ひとりの人生の一大事の課題を問い、明らかにしてゆく仏法聴聞の大切な期間であります。亡き人の死をご縁として、生きている私たちに聞法の歩みが始まってゆく。それこそが亡き人の死をむだにしない、いちばんの供養ではないでしょうか。

(本多惠/教化センター通信 No.83)

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Last modified : 2017/02/28 20:27 by 第0組・澤田見(ホームページ部)