問い

「私」とは、いったい何でしょうか?

答え

 隣家の四歳になる「誠君」という可愛いい男の子がときどき遊びに来ます。その子に「誠ちゃんはどれ」と聞いてみました。「まことちゃんはボクです」と答える。「ボクってどれ」と重ねて聞くと、「ボクって、これ」と言って自分の鼻を押さえる。「それは誠ちゃんの鼻だよ」と言うと、今度はオデコに指を当て「これがボク」と言います。さらに「それは誠ちゃんのオデコだよ。ほんとうの誠ちゃんはどれ」というと、全身をバタバタとさせて「これがボク」とおこったように言いました。

 少し意地の悪い質問をしたようですが、子どもは正直です。しかし私たちは皆んな「私が」とか「私のもの」とか「私はこう思う」とか、いかにも「私」というものが確かにあり、この「私」がわかったつもりで生きていますが、その「『私』とはいったい何か?」と問われたら、返答に困るのではないでしょうか。

 かつて暁烏敏先生が言われました。「わしの眼というと、わしというものは眼の他にある。わしの手というと、手の他にわしがある。眼もわしでない、手もわしでない。それじゃ、わしってどんなものじゃ。手でも足でもない。わしの頭、わしの体というが、あんたら『わし』ってどんなものか考えたことありますか。」

 私たちは「自分は自分だ」として、自分というものがわかったつもりでいます。そして人生はこの私を中心にして私の思いどおりになるはずだという前提に立って、自分を立て、守り、主張し、何ものをも自分のものとして私有化し、思いどおりになっていかずには気がすまないという願望に生きています。

 しかし現実は決して私の思ったとおりには動いていません。思いどおりになりたいと思うほど、思いどおりにならない現実に出会い、また他と対立して苦しんでいるのです。その苦悩の底に、「この私とはいったい何か?」という根本的課題が常に問われているのであります。

 暁烏先生のお師匠の清沢満之先生は「自己とはなんぞや、これ人生の根本問題なり」という問いをもたれて、一生涯問い続けられました。そして、その問の答えとして「自己とは他なし。絶対無限の妙用に乗托して、任運に法爾にこの現前の境遇に落在せるもの即ちこれなり」という自己に出遇われたのです。

 私たちが生まれたのも、死んでいくのも、今私として生きていることの全体が、私の思いを超えて「絶対無限の妙用」のままに生かされ、常に「現前の境遇」に在らしめられていたと気づき、その事実に頭が下がり、納得し、任せられるかどうか、私たちの大きな課題ではないでしょうか。

(本多惠/教化センター通信 No.86)

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Last modified : 2017/02/28 20:27 by 第0組・澤田見(ホームページ部)