問い

人間、何のために生きているのでしょうか。

答え

 種田山頭火は次のように言っています。

 死にたくないから生きたときもあった。
 死なないから生きたときもあった。
 生きたいから生きたときもあった。
 しかし、生きずにおれないから生きるときがあってもよいのではないか。

 放浪の歌人、山頭火は常に死を眼前にして生を問い、生きている証を俳句に表して日々を送っていたのでしょう。その問いを通して「生きずにはおれない」感動を見いだしていたと思われます。

 大体私たちは、気がついたら人間に生まれていました。このことをするために人間に生まれたいという意志を持って生まれてきた人は一人もありません。
 人生を電車に譬えるなら、乗った駅も覚えなく、行き先もわからないまま、今、電車に乗っている。そして死という終着駅が必ず来る。しかもそれはいつ来るかもわからない。「欲望という電車に乗って、次はー終点、墓場でございまーす」と言った人がありますが、このようなアナウンスがお互いにそろそろ聞こえてくるのではないでしょうか。

 平生何とも思わず生きていても、死によって「この世の終わり」を見るとき、足もとから「人間、何のために生きているのか?」と問われてまいります。

 仕事をするために生きていると言う人もある。また、家庭を守り、子どもを育てるために生きていると言う人もありましょう。また「世のため、人のため」に生きているという人もあります。いや、人生は享楽を求めるためだと言う人もあります。

 しかし、仕事には定年や退職ということがあり、その後も人生は続きます。余生は趣味や旅行、スポーツ、教養のために生きると言っても、どこか暇つぶしの感がぬぐえません。
 子どもを育てるのが生き甲斐と言っても、子どもはやがて独立して、手もとから離れていきます。
 享楽追求の生き方には常に空しさが伴い、また健康を害する恐れがあります。

 ある女子高校生が正親含英(おおぎ・がんえい)先生に尋ねたそうです。
「私はなぜ人間に生まれたのですか。なぜ女として生きていかなくてはならないのですか」と。
 そのとき先生は即答されたそうです。
「ほんとうによい問いをもたれましたね。どうぞその問いを大切にして、一生涯もち続けてください。必ずスバラシイ人生が開かれてきますよ」

 私たちも、この問いを大切にしたいものです。そのことによって問いの方から、大切な応答が聞こえてくるのではないかと思います。

(本多惠/教化センター通信 No.87)

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Last modified : 2017/02/28 20:26 by 第0組・澤田見(ホームページ部)