問い

4月8日は「花まつり」で、お釈迦さまの誕生日と聞きますが、お釈迦さまが誕生されたことにどんな意味があるのですか。

答え

 お釈迦さまは、今から約2400年ほど前、北インドの釈迦族の王子としてお生まれになりましたが、生まれるなり7歩あゆんで、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」とお名のりになったと伝えられています。私たちがいただいている『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』では、そこのところを「吾(われ)当(まさ)に世において無上尊(むじょうそん)となるべし」と記されており、共にこれらの言葉は「人間誕生の意義」と端的に教えてくださっているのでしょう。

 私が人間としてこの世に生まれたのは何のためかといえば、この世においてまさに「無上尊」となるためであると。「無上」とは、私がいちばん上、「お山のテッペンぼく一人」ということではなく、無上は即ち無下であって、上も無く下もない、比較を超えたという意味です。人はだれしも、だれとも比較できない、また比較する必要のない唯一無上な尊い存在であるという意味で、そういう尊い自己自身に目覚めてゆくために人間に生まれたのであると。

 お釈迦さまは、若いころからこの世の無常と、生きることの苦しみをお感じになり、「人生はなぜ苦しいのか。ほんとうに生きるとはどういうことか」という課題を担って29歳のとき出家され、そして35歳のとき真実の法に目覚められたと伝えられています。

 その目覚めとは、苦しみ悩みの原因は自分というものの取り違い(無明(むみょう))と煩悩(ぼんのう)にあったと気づかれ、真実の法に依って生きるほんとうの生き方を得られたのです。

 自分の取り違いとは、「私が」という勝手な執着(自我)を自分として生きていることです。そこから、私のいのち・私の財産・私の健康・私の能力……というようにあらゆるものを「私のもの」と取り込み、その「私のもの」に依って「私」を立てようとして生きている。そのあり方こそが迷いの構造であり、苦悩の元であります。真実の法に照らされてみれば、「私が」も「私のもの」も本来無いものであった。私自身も他の一切のものも、「私」の手を超えた「法」の上に成り立っていたのである。その法に遇うとき、他なる条件に依って私の値打ちが決まるのでなく、法の上に成り立っていたあるがままの私自身を、無条件で「無上に尊いもの」と真にいただくことができるのでありましょう。

 その法とは、「無量寿経」に説かれる「弥陀の本願」であり、お釈迦さまは「唯弥陀の本願海を説く」ためにこの世にお誕生くださったと、親鸞聖人は教えてくださっているのであります。

(本多惠/教化センター通信 No.94)

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Last modified : 2015/02/11 23:17 by 第0組・澤田見(ホームページ部)