問い

信仰とは、自分を磨き、りっぱにし、強くすることだと思いますが、違うのでしょうか。

答え

 幸福を願わない人はいないように、自分を磨き、りっぱにし、強くすることを願わない人はないでしょう。しかし大事なことは、自分が幸福になることが他人を傷つけ、不幸になることであってっはならないでしょう。自分の幸福のためなら他人はどうなっても知らないというのは、決してほんとうの生き方ではありません。

 同じように、清く、正しく、美しく、誠実に生きたいと願い、それを求めることは、人間として実に真面目な生き方ですが、しかしそれを求めつつもそのあり方を歪めてゆくものがあります。それは私たちの中に深く具わっている自我心であり、欲望であります。自分への自我関心と欲望が内にある限り、清く、正しく、美しく生きていくわけにはいきません。

 自分を磨き、りっぱにし、強くしたいと思うことは、一応誠実な生き方のようですが、その誠実さの内に潜む自分を知らない甘さと思い上がりが知らされ、砕かれていかない限り、かえってその誠実さが自分を惑わし、他人を惑わし、社会を濁していくこととなります。「人間は自分の理想に誠実であればあるほど大きな過ちを犯す」と言われるように、自分の理想に誠実であることにおいていつの間にか自分を絶対化し、他を見下し、切り捨て、否定している自分があります。みずからの力でこの自我関心を破り、欲をなくすことは不可能であります。

 親鸞聖人は、「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」と言われます。この「凡夫」の自覚こそ、真実なるものに照らし出された人間の偽らざる姿でありましょう。凡夫の身を忘れるとき、私たちは自分に夢を身、値打ち以上に買いかぶり、思い上がって迷うのです。

 真の信仰は、真実の教えを鏡として偽りなき我が身を見つめてゆく道であります。そこに、常に自我いっぱいに、欲の渦巻く心で生き、罪悪を犯し続ける以外に生きるすべなき衆生を救わずにはおかないという阿弥陀仏の本願に耳を傾けてゆく道があり、それこそ唯一の人間性を回復し、確保する道ではないでしょうか。

(本多惠/教化センター通信 No.95)

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Last modified : 2017/02/28 20:25 by 第0組・澤田見(ホームページ部)