問い

自力の修行で覚り(さとり)を開くのと、他力の教えによって信心を獲(う)るのとでは、どう違うのですか。

答え

  覚り(さとり)を開くというのは、仏になるということです。仏とは、煩悩を断じ尽くして、全ての人びとはもとより、自然界の生きとし生けるものと平等に共生できる世界を生き合うことができるということです。その意味で覚りを開くということは煩悩(欲)を無くして仏となることで、人間の身をもって仏となられた方は歴史上釈尊(釈迦牟尼仏)お一人です。

 他力の教えとは、阿弥陀仏の本願のおいわれです。その本願のおいわれを聞いて、我が身にうなずき、阿弥陀仏のお意(こころ)に頭の下がることを信心を獲(う)るといわれます。

 阿弥陀仏の本願とは、煩悩を断ぜよというのではなく、むしろ煩悩を一歩も離れることのできない人間の生き様を見ぬかれて、大悲の心で見守ってくださるのです。そして真に共生できる世界(浄土)に往生する願生心に立って生きてほしいと呼びかけておられるのです。 親鸞聖人はその呼びかけを「本願招喚の勅命」と仰せられ、それに対する応答を「南無阿弥陀仏」と教えられます。すべての人びとが深いところで願っている共生し合う世界、一つ世界(浄土)に往き生まれる道を明らかに示してくださっているのが阿弥陀仏の本願であります。

 私たちが私利私欲を念じて、その思いを満たそうとするところに地獄(苦しみに、いと間のない世界)、餓鬼(満足を知らない欲求不満の世界)、畜生(本当の自分を見失った世界)が造られてゆきます。その欲(煩悩)を自力の修行によって無くそうとすることは、真面目な発想ではありますが、私たちに欲を断ち切ることは不可能であります。みんなが欲を無くせば平和な世界が実現することは子どもでも知っています。しかし、欲を断ち切ることは、人間である限り即ち肉体を持って生き、衣食住を欠いては生きられないものにとっては不可能といわざるをえません。『歎異抄』にも「煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう」と言われています。

 私が修行をして覚りを開くのではなく、煩悩j具足の凡夫に帰って仏を念じ(念仏)、仏の国すなわちすべてが共生する浄土を願生する信心に立つとき、いよいよと自身の悪性(あくしょう)も知らされ、阿弥陀仏の悲願がことさら仰がれてくることであります。

(本多惠/教化センター通信 No.96)

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Last modified : 2015/02/11 23:13 by 第0組・澤田見(ホームページ部)