問い

念仏して無心になろう、素直になろうと思うのですが、なかなか無心になれません。どうすればよろしいでしょうか。

答え

仏さまは、私たちを見貫きとおして「煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)よ」と呼ばれます。「『煩ぼん)』は身をわずらわす、『悩』は心をなやます」と教えられるように、煩(わずら)い悩みの多い生活は嫌なものです。煩い悩みのない、いわゆる「無心」な生き方を望むのは、無理からぬことです。

お念仏を称(とな)えて清浄(しょうじょう)・無心な心境が得られるものならそうしたいものです。しかし、お念仏は心を静め安らかな心境になるための方法でも、また呪文でもありません。スカットさわやかな気分になりたいなら、コカコーラの方が効果があると言った人もあります。

「人間は考える葦(あし)である」と言われるように、無心になろうと思うこと自体が無理なことなのです。「無心になろう」とすれば、すでにもう無心ではありません。

源信僧都(げんしんそうず)は「妄念(もうねん)は凡夫(ぼんぶ)の地体(じたい)なり」と教えられます。妄念妄想は私たちの地体(本性)であり、生まれながらに持ち、死ぬまでなくならないものであります。

阿弥陀仏の本願を聞き、お念仏を申す身になると、煩悩妄念がなくなるのではなく、煩悩具足(ぐそく)の自分自身がはっきり見えてくるのです。小川一乗師が「涅槃(ねはん)とは炎が吹き消された状態であって、煩悩の炎を吹き消すことではない。部屋が暗いと不安であるが、電灯をつけると物が見え、机やゴミ箱や腰かけ等がよく見えるから安心して歩ける。聞法すると机やゴミ箱など邪魔物がなくなるのではない。邪魔物がはっきりするから安心して歩ける。そのことを親鸞聖人は不断煩悩得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん)と言われた」と言われます。

煩悩がなくなる、つまり無心になった世界を涅槃というのであれば、私たち凡夫にはおよそ縁のない世界であります。「煩悩を断ぜずして涅槃を得」と言って感動された親鸞聖人は、正に本願を信じ念仏して生きられた方であります。

「比叡山で修行して清浄心(しょうじょうしん)になって、祝い酒をのんで虎になる」と皮肉を言った人がある。凡夫といわれる私たちは、縁によって清浄な気持にもなりますが、またちょっとした縁で鬼のような心にもなります。そのような自分自身から目をそらさず、煩悩妄念のままでひたすら本願に耳を傾け念仏申しつつ生きたいものです。

(本多惠/教化センター通信no.99)

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Last modified : 2015/03/02 18:22 by 第0組・澤田見(ホームページ部)