問い

石山合戦で本願寺が織田信長と十余年間も戦ったのは、どんな理由があったのですか。

答え

 大阪の地に石山本願寺を本寺(本山)として構えた真宗門徒は、その勢力たるやとどまるところを知らず、寺院は城郭化し、寺内町も八町に及ぶ規模になりました。十一代顕如(けんにょ)上人の時代には、当時の貴族九条家や近衛家とも手を結び僧界の最高位に就かれ、また本願寺は朝廷の許可による門跡寺院にもなりました。

 戦国大名は競って上洛して天下に号令する権力・財力を手に入れようとしました。中でも織田信長は、永禄3(1560)年に桶狭間の戦いで今川義元を破り、上洛してきます。信長は勢いに乗じて近畿一円を攻略し、その兵糧銭を要求し、本願寺にも五千貫という大金を要求し、その後も次々と無理難題を押しつけてきました。その都度できるだけのことはしたそうですが、ますます要求はエスカレートし「本願寺を破却する」とまで言ってきました。そのもとには本願寺の寺地、石山を乗っ取る意向があったようです。

 破却を迫るということは、本願寺の滅亡を意味することであり、本願寺の一大事であります。ついに元亀元(1570)年9月12日夜半、寺内の鐘をついて近在の門徒衆に告げて、ここに決然として信長との戦いに踏み切ったのです。以後十余年にわたる石山合戦の火蓋が切られることとなったのです。

 信長の暴挙はとどまることを知らず、自分の思いにかなわぬものは相手かまわず攻略しました。比叡山の焼き討ちも有名なできごとです。叡山の僧兵の武力を利用しようとしたが、聞き入れなかったことに気を悪くした信長は、軍を叡山に向けて猛攻し、全山の僧坊を焼き払い僧徒数百人を皆殺ししたと言われています。

 本願寺と親交を結んでいた武田信玄が病没した後は、本願寺門徒に対しても厳しく迫ってきました。天正元(1573)年8月、越前一乗谷に朝倉義景を攻めて自死せしめ、次いで浅井氏をも滅亡に追いやった。この間、信長の心にかかっていたのは長島の一向一揆軍でした。この地には蓮如上人の六男連淳(れんじゅん)が顕証寺(けんしょうじ)を開き、堅固な門徒勢力を形成していました。さすがの信長も、この一揆軍には手こずったが、ついには中島、長島の砦を柵で囲み、火を放って何万人という男女を全て焼き殺してしまったのです。そしてついには真宗王国の本山石山本願寺に手を伸ばしてくるわけです。その間、顕如上人は常にこちらからは戦いを挑むことなく、門徒養成に力を注ぎ、やがて石山を明け渡して紀州鷺森に身を移されることになりました。

(教化センター通信No.110)

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Last modified : 2015/03/02 18:06 by 第0組・澤田見(ホームページ部)