問い

東西分派の後、東本願寺はどうなっていったのですか。

答え

 波乱の生涯を送られた教如上人は、57歳で没せられるまで東本願寺の育成に務められましたが、世間一般には東西の二本願寺の存在を認められてはいなかったようです。

十三代宣如上人になって、「七条東門跡」として地位がはっきりしました。徳川三代将軍家光より多くの土地が寄進され、六条、七条の間は新町をかぎり東は加茂の河原にいたる一大法城が出来あがりました。

本堂も改築され、御影堂は間口32間あったといわれ、西本願寺と肩を並べる様相を呈していたそうです。

しかし天明8(1788)年正月晦日早朝、洛東に火の手があがり、全市はほとんど焦土と化し、東本願寺も全焼してしまいました。以後80年間に三回、全焼の難にあいました。四回目は、元治元(1864)年の禁門(蛤御門)の変に災いされて、両堂(御影堂・阿弥陀堂)はじめ枳殻邸(きこくてい)などすべて消失し、時期はまさしく幕末維新の時代であり、もとより再建を云々する時期ではなく、復興はしばらくすえおかれることになりました。

かくて、内部では着々と再建の機運は高まり、ついに明治十二年五月に二十一代厳如上人による両堂再建の親書が出されました。そして明治十三年十月に両堂再建釿始(ちょうなはじめ)の式が厳修され、以後明治二十八年両堂落成を迎えるまでの全真宗門徒あげての生命(いのち)がけの再建への熱意は筆舌に絶するものがありました。

今にその法義相続への懇念(こんねん)を偲ぶものとして、毛綱が残されています。前代未聞の巨大な建築用材を持ちあげるのに、当時の綱では間に合わず、窮余の策として、当時女性の命とまでされていた黒髪を切りおとし、それを編んで毛綱として用材を釣りあげ、やっと両堂の建築が成就したのです。それが現存する本廟(ほんびょう)の両堂なのです。

親鸞聖人の時代から、蓮如上人を通して今日に至るまで、数々の弾圧、数度に及ぶ火災等々、幾多の困難を乗り越えてきたその原動力は、いったい何であったのでしょうか。それは真宗門徒と言われる名もなき無数の民衆の心の底に一貫して働く本願念仏の信心であるに違いありません。現代を生きる私たちは、身を以ってその歴史の事実と本願の教えを領受してゆかねばならない責任があるのではないでしょうか。

(本多惠/教化センター通信no.112)

Pocket

Last modified : 2015/03/02 18:08 by 第0組・澤田見(ホームページ部)