問い

『御文』に、女人は「つみふかき五障三従(ごしょうさんしょう)とてあさましき身にて」とありますが、五障三従は女性の罪なのでしょうか。

答え

「五障」ということは、女性は生まれながらにして「梵天王、帝釈天王、魔王、転輪王、仏になれない障りを持っている」ということで、「三従」とは、女性は「幼い時は親に従い、結婚すれば夫に従い、老いては子に従わなければならない」、要するに女性は男性に無条件に従わなければならない存在であるという説です。こういう説は、実は仏教の説ではなく、いろんな学者の指摘によると、釈尊出世以前からインド社会にあった女性蔑視の考え方であって、どうやらヒンズー教によって作られたものであるらしいことが判明しています。それがいつの間にか、あたかも仏教の真理であるかのように中国、朝鮮、日本へと伝わって、蓮如上人の「御文」の中にも表現されたという歴史があるのです。この説が根拠となって、女性は仏教の救いから排除され差別され続けてきたというのが、日本仏教の伝統になっていたのです。その仏教の伝統と、封建社会による男尊女卑の社会の状況の中にあった当時の女性の立場を見据えながら、女性救済を第一義とする「御文」が多く作られているのですが、しかしながらその時代の制約があったとはいえ「御文」が女性の救済を説く場合には、必ずといってよいほど女性は五障・三従と言う、男にまさって罪深い身であるとことさらに強調される表現には、蓮如上人自身はその意図は全くなくても、それを読む者が逆にそれを女性差別に利用しかねない危険性を持っていることは否定できないと思います。

また「御文」には、度々「十悪五逆の罪人」ということと並列して「五障三従の女人」という表現が出てきます。「十悪五逆の罪」は、仏教において仏の教えに最も背く行為として誡(いまし)められるもので、特に親鸞聖人の教えでは、「十悪五逆」が我が身の根本的なあり方であると深く自覚せしめられ、その自覚によって念仏の法に遇わしめられるのです。即ち、男であれ女であれ人間であること自体、そのような罪を犯さざるを得ない人間の本性に目覚めた者が、自らを指して言う言葉が「十悪五逆の罪人」であります。ところが「五障三従の女人」のほうは、前述のようにヒンズー教から混入した差別的な女性観であって、女性だけに強いられる「罪」の自覚ではないことはもちろん、人間存在の平等を説く仏教本来の教え、特に真宗の教えとは矛盾することを、「御文」を拝読する上で心しておかねばならないことと思います。

「同朋」誌掲載、箕輪秀邦氏「『御文』に学ぶ」参照
(本多惠/教化センター通信no.112)

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Last modified : 2015/02/15 9:59 by 第0組・澤田見(ホームページ部)