問い

『御文』に、「罪深き身」ということがくり返し出てきますが、仏教で「罪」とは、何でしょうか

答え

仏教で「罪」と教えられるのは、人間が犯すある特定の罪というよりは、人間であればだれもがその根底にそなえている無明性を言うのであろうと思われます。『御文』にしばしば出てくる「十悪・五逆の罪」というのは、十悪は殺生・偸盗(ちゅうとう)・邪淫(以上は身業(しんごう)の悪)・妄語・綺語(きご)・悪口(あっく)・両舌(りょうぜつ)(以上は口業(くごう)の悪)・貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(以上は意業(いごう)の悪)という身口意(しんくい)の三業に渡る行為であり、五逆は母を殺す・父を殺す・阿羅漢(聖者)を殺す・僧伽(教団)の和合を破壊する・仏の身体を傷つけ血を流すことの五つの行為です。これらの行為は最も仏に背く行為であって、このような行為をしたものはとうてい救われないと教えられてきました。

しかし、大乗仏教ではこれらの罪を犯した者でも救われる道を明らかにしてきました。特に親鸞聖人の教えは、十悪・五逆が我が身の根本的なあり方であったと深く自覚せしめられ、そこにこそ『ただ念仏せよ』との法然上人の教えの意味をうなずき、十悪・五逆の愚人が念仏ひとつに定まった生き方が与えられることを顕されたのであります。

それは十悪・五逆の我が身を肯定していくのではなく、人間であること自体が仏の教えに背いているのではないかということが問われ、その仏に背く人間の本性とは何かということを明らかにしていくことが真宗の教えの要点であります。その仏の教えに背く人間のあり方を「罪」と押さえるのでしょう。

だいたい、十悪とか五逆という行為は、人間の無明性に基づいて起こってくることを明かすのが仏教です。その無明とは、十悪の最後にある「愚痴」のことで、その愚痴とは「我執(我れがあると思い、その我れへの勝手な深い執着)」に因って起こってくるもので、無明とは我執が因であります。十悪とか五逆の行為がなぜ起こるのかということ、人間が我執を本性として生きているからであります。

「父・母を殺す」逆悪にしても、自分はそんな罪は犯さない、そんな罪を犯すものは大罪人だと、他人を裁いていくのが世間一般の見方ですが、はたして他人ごとにそう言えるのでしょうか。

ひとたび阿弥陀仏の本願に触れるなら、十悪・五逆は自分自身の事実であって、常に親に背き、縁あれば実際に親を殺しかねない要因を本性として生きている自分自身が、照らし出されてくるのではないでしょうか。親鸞聖人は「親をそしるものをば、五逆のものともうすなりと」言い切って、人間の本性としての「罪」を見つめておられるのであります。

(本多惠/教化センター通信no.116)

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Last modified : 2015/02/15 9:58 by 第0組・澤田見(ホームページ部)