問い

私は二年前、夫を亡くし、現在高校と大学の二人の男の子と暮らしています。毎日、夫が成仏できますようにと供養のためと思い、また子供たちがりっぱに育ちますようにと夢をかけてお願いしてお念仏していますが、まちがっているでしょうか。

答え

かつて、正親含英(おおぎがんえい)先生から聞いた話です。二人の子供を持った母親が、長男を事故で亡くし、悲しみに明け暮れ、毎朝長男の墓前に日参しておられたが、ある日先生を訪ねられた時のことです。

 「死んだ子供が不憫で毎朝お墓参りをしている私を近所の人が見て、『いいかげんに死んだ子供のことは忘れて、残された子供さんのことを思い、平常心を取り戻さないと、死んだ子供さんも浮かばれませんよ』と言われますが、本当にそうでしょうか」それを聞かれた正親先生は「いやいや、さるものは日々にうとしと申しますが、端の人には忘れられても、せめてお母さんだけなりとも亡くなったお子さんのことを思い続けてあげてください。しかし亡くなったお子さんはお母さんのことをどのように思っておられるか、いちどよく考えてあげてください」とおっしゃった。

 再びその母親が先生に会われたときのことです。「先生に『せめて母親だけなりとも……』と言われてホッとした気持ちに家に帰ると、二男が『お母さん、今日何か良いことがあったの、顔が明るいよ』と言いました。その時ハッと気がついたのです。私が死んだ子を不憫に思って暗い顔をしていた。その私を二男は心配して願いをかけてくれていたんだ。死んだ子が私をどう思っているかなどわかりっこないと思っていたが、先生のおっしゃったことがよくわかりました。」と言われたということです。

 最愛の夫を亡くされ、二人の子供さんを抱えて、亡き夫を思い子供さん達の将来を心配して心は千々に乱れ、祈りにも似た気持ちであれこれ願いをお念仏に託されるお気持ちはよくわかります。しかし、お念仏は、亡き人への供養のためのものでもなく、私の様々な願いをかなえてもらうためのものではありません。お念仏は、仏さまの大いなる慈愛の現われであり、私が願うに先立って私の助かることを願って常に呼びかけてくださる仏さまのお呼び声であります。

 悲しみの心のままに静かにお念仏を称え、また南無阿弥陀仏の教えを聞かせてもらってゆくことにより、あなた自身が願うに先立って、大きな願いをかけられている事実に目覚めるに違いありません。自分自身が深いところから願われていたことに気づいた時、はからずも微(わず)かではあっても確かな光が、生きる道を照らし出しえくださることでしょう。そこにまた、亡き人より願われていた我が身を知らされることであります。

(本多惠/教化センター通信No121)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)