問い

私は三十三歳になる主婦ですが、今年の初め交通事故にあい、その後もたびたびケガをしたり、あまりよいことがありません。私は今年厄年(やくどし)なので、三年間厄除けの祈願をしないといけないと言われました。どうも不安です。何かほかにしないといけないのでしょうか。

(33歳・主婦)

答え

 厄年ということで悩んでおられるようですが、本来、厄年などというものはありません。男は四十二歳を「死に」、女は三十三歳を「散々」とゴロ合わせして恐れているに過ぎないのです。ですから外国にはありません。

 ただ、男女ともこの年頃は、肉体的にも老境に向かう過渡期であり、社会的にも中堅で多忙を極め、家庭的にも子供の成長期で気苦労も多く、人生において何かと大変な時期です。ついつい無理をして体を壊したり、事故に遇ったりすることもあるでしょう。しかしそれは厄が祟ってなったのではありません。

 病気や事故や災難は、別に厄年でなくても起こるときは起こるし、厄年であっても起こらぬときは起こりません。それを、思うようにならないことに遇うと、厄年だからと結びつけてしますのです。自分の不摂生で病気になり、不注意で事故に遭い、また「さるべき業縁(ごうえん)」が催せばどんな災難に遇うかわからない道理であるものを、厄年のせいにするのです。かつて仲野良俊師が「厄年で病気や事故に遇うのでなく、業(ごう)でなるのです。業ならばどんな目にも遇わねばなりません」と話されました。

 親鷺聖人は、人間を[業縁存在」と教えられます。業縁とは、業繋性(ごうけいせい)と遇縁性(ぐうえんせい)とに生きているということです。業繋性とは、業に繋がれていて「どうにもならない」ということ。遇縁性とは、縁次第で「どうなるかわからない」ということです。私たちは、どうにもならないことをどうにかしようと思って不満をもち、どうなるかわからないから不安をもって、苦悩や迷いが生じます。

 最も大切なことは、厄除け祈願などではなく、どんなことに出遇ってもそれを受け止め、よかったと転じてゆける智慧(ちえ)と力を身に頂いてゆくことです。それは、親鸞聖人の教えを聞いてゆくところから賜るのです。「悪を転じて徳となす正智(しょうち)」と教えられるお念仏の智慧を頂いて、どんなことに遇っても恐れなく受け止め、超えてゆける「無碍(むげ)の一道」を歩みたいものです。

(本多惠/教化センター通信No129)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)