問い

私は仏さまの教えは、ご先祖を大切にして、心を安らかに毎日を大切に日暮しさせていただくことが一番大事だと思っています。ところがお話を聞きますと、社会問題や政治問題がときどき出てきます。そのような問題と仏さまの教えとどのようにつながるのでしょうか。

答え

 仏教はたしかに私たち一人ひとりが安らかに毎日を大切に日暮しさせていただく、救済の法を教えられていますが、私一人だけが救われることを教えられるのではありません。十方衆生(全人類はもちろん、生きとし生けるもの)が、共に、平等に救済される法が特に阿弥陀仏の本願として説かれています。

曽我量深という先生は、九十歳を過ぎても現役で、大谷大学で親鸞聖人の教えを学生に教えておられた大学者ですが、ある日新聞を見ておられて、酒の値段が上がったのをご覧になって、「とんでもないことです。サラリーマンや労働者が一日の疲れを一杯の酒で癒す。それを脅かすことは実にけしからん」と言われたそうです。先生は常に、右手に聖典、左手に新聞を持って生涯歩まれたと聞きます。阿弥陀仏の本願のお心を本当に知らされた人は、自ずと共に生きる人々、さらには生きとし生けるものにも関心が向けられるはずです。「一人でも不幸な人のいるかぎり、私のほんとうの幸せはない」という言葉があります。仏の本願のお心に生ける者の願いをよく表しています。

私たちは煩悩具足の凡夫であることを教えてくださったのが親鸞聖人です。聖人は「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて、清浄の心もさらになし」と、終生わが身を見据えていかれました。凡夫とは、しょせん自分の幸せしか考えられない悲しい存在です。たとえ世のため人のために生きているつもりでも、いざとなると我が身可愛いという自己保身、自己中心的な生き方しかしないのが凡夫です。教えを聞き、信心を喜びつつ毎日を生きている中に、知らずの内に人を傷つけ悲しませ、差別をし踏みにじって生きていることに気づかない。そういう根深い罪障性には、自分ではなかなか自覚できないものです。現実の社会に厳然としてある差別の問題をはじめ社会の様々な問題に目を向け、その問題の原因がどこにあるのか、厳しく自分に生き様を問うことを通して、必然的に社会や政治の仕組みなど、さまざまな問題に目を向けてゆくことが、信心の課題として大切なことでありましょう。

(本多惠/教化センター通信no.140)

目次へ戻る

Pocket

Last modified : 2015/02/10 0:57 by 第12組・澤田見(ホームページ部)