問い

真宗で、「たすかる」とか「救われる」とかいうことはどういうことなのでしょうか。また、「たすかる」ということで、現実の生活はどのように変わっていくのでしょうか。

答え

人間として生まれ生きている事実に感動し、今現に生きていることのスバラシサに気づくことが「すくわれた」ということです。

私たちは自分の人生を無条件に喜ぶことは至難のことだといえましょう。自分の思いどおりになることは少なく、自分自身が納得できない出来事があまりにも多すぎます。自分がもしまた人間に生まれ変わってきたならば、この度生きてきた人生とまったく同じ人生を歩みたいと思う人は、ほとんどなかろうかと思われます。

事を分けて申しますと、人間は好むと好まざるとにかかわらず、四つの限定の中に生きていると言われています。一つは「誰にも代わってもらうことが出来ない」ということです。自分が日本人として生まれたことも、男としてまた女として生まれたことも、体が弱いこともいかなることも自分の人生は自分が生涯背負っていかなくてはなりません。

二つには、「くりかえすことができない」ということです。振り返ることはできるがやり直すことはできないと教えられますように、失敗したからといってやり直すことは絶対に不可能です。

三つには「必ず終わりがくる」そして四つには「その終わりはいつくるかわからない」ということです。終わりとは申すまでもなく「死」です。死はまちがいなく我身の上にもやってくる事実です。のがれる術はありませんし、精進努力していつの日か幸せをつかもうという夢を無残にも根こそぎ壊してしまう厳しいものです。

とすれば、誰に代わってもらう必要もない私の人生を生き、くりかえす必要のない今日、そしていつ終わっても悔いのない今日を生きることこそが私の救いだといえましょう。和田稠(しげし)先生は「念仏者はいつまで生きても退屈しない。いつ死んでも後悔しない今を生きている人です」とおっしゃいました。

「たすかる」ということは、自分の努力や心の工夫ではどうにもならないと思い知らされることです。念仏に生きられた方々の教えを聞くことにより、そこに人生の方向がはっきりしてまいります。それが「たすかる」ということです。

このことに気づいたならば、そのときが出発です。聞法に心がけようではありませんか。

(本多惠/教化センター通信no.145)

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Last modified : 2015/02/11 23:12 by 第0組・澤田見(ホームページ部)