問い

毎朝正信偈のお勤めをしているのですが、悩みごとや気になることが次々と頭をよぎります。雑念をなくそうとするのですが、どうにもなりません。これでいいのでしょうか。

(70歳・男性)

答え

 「毎朝正信偈のお勤め中に雑念がおこる。これでいいのでしょうか」とおっしゃいますが、いいも悪いもない、それが事実であれば、どうすることもできないでしょう。そういう自分であることを受け止める以外ありません。雑念をとりはらおうとするのも我が思いであり、一種の雑念だといえます。それでもいいから正信偈のお勤めを続けることをお勧めします。

 比叡山のふもと横川(よかわ)に源信僧都(げんしんそうず)という方がおられました。親鸞聖人も七高僧の一人として尊敬されていた方です。その方が「妄念はもとより凡夫(ぼんぶ)の地体なり。妄念の外(ほか)に心もなきなり。臨終の時までは、一向に妄念の凡夫にてあるべきとこころえて念仏すれば、来迎にあずかりて蓮台(れんだい)にのるときこそ、妄念をひるがえしてさとりの心とはなれ」と教えられています。

 凡夫とは私たちのことです。凡夫は雑念、すなわち妄念妄想以外にないということでしょう。その妄念雑念の内容もお粗末なものです。親鸞聖人は「凡夫というは、無明(むみょう)煩悩(ぼんのう)われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」とおっしゃっています。

 実に度しがたい厄介な代物が私たち凡夫であるわけです。それを見抜いたうえで源信僧都は「妄念のうちより申しいだしたる念仏は、濁にしまぬ蓮のごとくにして、決定往生(けつじょうおうじょう)うたがいあるべからず」と教えられます。

 正信偈をお勤めすることとお念仏を申すこととは同じことです。お釈迦さまの教説と七高僧の論釈によって、お念仏のいわれに感動された讃歌が正信偈です。いわばお念仏の心を親鸞聖人が全身全霊で受けとめ表現されたのが正信偈であるといえます。私たちは正信偈をお勤めすることによってお念仏のひびきを感受し、さらに聞法によってお念仏のいわれを聞くことが雑念を気にすること以上に大切なことかと思われます。

(本多惠/教化センター通信 No147)

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Last modified : 2015/03/02 18:23 by 第0組・澤田見(ホームページ部)