問い

業とか因縁ということばを聞きます。自分を束縛しているものとして使うように思えますが、正しい意味を教えてください。

(50歳・男性)

答え 業とか因縁という言葉は仏教でいわれる言葉ですが、たしかに重苦しい響きを私たちに感じさせます。「それはおまえの業だから仕方がない」とか、「それは因縁だからあきらめなさい」とか、よく言われることです。

人は業縁存在だと教えられています。分けて申しますと業繋性(ごうけせい)と遇縁性(ぐうえんせい)です。業繋性とは業によって繋縛(けばく)されているということです。自分が男に生まれたことも女に生まれたことも、性格、容姿、出生地、すべて自分が意図したものではありません。そのことに納得できず不満な思いをもつときは業繋としか受けとれません。しかしながら、否応なくその事実は変えることはできません。それを宿業と言われています。

遇縁性とは、私たちは縁によって生きていますから、どのような縁によって、どのようになるか予想ができない現実を生きているのです。予定をたてて生活していますが、予定どおりに事がはこぶとは限りません。むしろ思いどおりにならないことが多いようです。

たとえば、海外旅行を計画して楽しみにしていても、周りの情況や外地の情勢、あるいは自分自身の体の不調によって中断せざるをえないということもあります。自分が計画したことが、諸縁によって左右されることがあるということです。

自分の能力・努力ではどうしようもない(業繋性)、また、自分の思いどおりに事がはこばない(遇縁性)、そこに不満と不安をもち、現在の身の事実が容認できずに苦悩しているのが私たちであります。

その苦悩の根源は我執だと教えられています。我執とは自分の思いに執われるということです。自分の思いどおりにしたいということです。業とか因縁ということで教えられることは、私たちの身の事実を明らかに示してあるわけです。苦悩は他からくるのではなく、身の事実を知らないことに起因するということであります。

(本多惠/教化センター通信 No.152)

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Last modified : 2015/02/15 9:57 by 第0組・澤田見(ホームページ部)