問い

「インチキな宗教」が後を絶ちませんが、ほんとうの宗教との見分けかたを教えてください。また、だれしも人間には「インチキな宗教」に引かれる心があるようにも思うのですが、どうでしょうか。

(50歳・男性)

答え

 「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という古句があります。田舎の夜道をオドオドしながら歩いていたら幽霊が出た。びっくりして逃げ帰り、翌日見に行ったら枯れたススキの穂が風に揺れていたということです。幽霊が実在したのではなく、恐ろしい、怖いと思う思いがススキを幽霊と見間違えさせたわけです。

 「インチキ宗教」とのかかわりも、このようなものでしょう。最初から「インチキ宗教」だとわかって信じる人はありません。はじめは信頼できる正しい宗教だと思ってかかわりをもつわけです。しかし結果が自分の思いどおりにならなかった。気がついてみたら、とんでもないことになっていたということで、「インチキ宗教」に引っかかってしまって、取り返しのつかない状態になっていたというわけです。

 結論から申しますと、人の不安、欲を利用してかかる宗教のあり方も問題ですが、それに引っかかる私たちの方にこそ問題の根っこがあるということです。

 宗教には、偽(いつわり)の宗教、仮(かり)の宗教、真(まこと)の宗教があると教えられています。偽の宗教とは欲望(お金・名誉)を肯定し、あおりたてる宗教です。例えば商売繁盛・開運・無病息災を約束する宗教は、間違いなく偽の宗教だと思っていいでしょう。その証拠には、その宗教に入信して損をしたり、病気が治らなかったりしても、何の保証もありません。「信心が足りないからだ」と言われるのが落ちです。さらに決定的なことで言えば、私たちがいちばん恐れ嫌う「死ぬ」ということについて、「この宗教を信じたら絶対に死ぬことはありません」と教える宗教は聞いたことがありません。

 仮の宗教とは、欲望こそが諸悪の根元であり、惑乱(わくらん)するものであるから、精進努力して欲を無くそうとするものです。これは実にまじめな宗教です。しかし欲は生きている間は無くなることがありません。

 とすれば喜怒哀楽のある人生、そしてついには死を迎える人生全体に大切な意味を見いださしめる宗教、それこそ真の宗教と言われるものでしょう。

 親鸞聖人は「悪を転じて徳となす正智」だと教えておられます。

(本多惠/教化センター通信 No157)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)