問い

『御文(おふみ)』に「わが身のあさましきつみのふかきことをばうちすてて」とありますが、どういう意味なのでしょうか。

(65歳・男性)

答え

「あさましい」とは、あまりにもひどくて見るに堪えない、みじめなありさまをいうのでしょう。自分自身はそのような根性で生きているからして、限りなく罪を犯して生活している。そのことをなんとかして善人に成ろうとか、このようなものは救われないだろうとか思う思いをやめて、阿弥陀如来を信じなさいと蓮如上人(れんにょしょうにん)が教えられているわけです。ということは、「あさましきつみのふかき」我が身は、自分の才能や努力で是正されるものではないということです。そのことはすでに承知のうえで、一切衆生(いっさいしゅじょう)を、善人も悪人も老人も若人も平等に救うというのが、阿弥陀如来の本願であるから、その本願を信じ念仏申すほかに道はないと教えられるわけです。

そこで問題なのは、私たち自身は罪悪感をもち、我が身のあさましさを実感しているかということです。我が身はあさましき罪深き身だと痛感し、悲しみ、悩んでいる人にこそ、この蓮如上人の教えは響いてくるのでしょう。自分は正しいと思い、たとえ多少は間違っているとは思っても、自己弁護し正当化しようと思って生活している者には、蓮如上人の教えも、どこ吹く風というものです。

考えてみますと、私たちが今生きているということは、多くの生命を殺し、多くの生物の生きる世界、自然を破壊していることではないでしょうか。ついには自滅するであろうこともわきまえずに、便利さ豊かさを限りなく求めて猛進している。一旦走り出した欲望という名の電車、否ロケットは、止まるところを知らない。このような思いをもつのは、あながち私だけではないでしょう。

さらに人間社会を見ましても、欲望(金と名誉)を満たすためには尊厳なる人命をもかえりみない時代社会の一員が、私自身なのです。今こそ、一切衆生と呼びかけ、生命の何たるかを教えられる阿弥陀の本願に、耳を傾けなくてはならないときではないでしょうか。

(本多惠/教化センター通信 No165)

Pocket

Last modified : 2015/02/15 10:02 by 第0組・澤田見(ホームページ部)