問い

このたび、お寺の総代に選出されたのですが、何をどのようにしてよいのか戸惑っています。どうしたものでしょうか。

(65歳・男性)

答え

 寺の総代は寺院の維持運営を考え、実行に移す中心人物になる人だと言われています。確かにそのとおりですが、では、なぜ寺院を維持運営するのかということをはっきりする必要があります。

 寺は「念仏の道場だ」と言われています。これこそが寺のいのちなのです。それにはまず、寺は「聞法の場」でなくてはなりません。

衆生、仏願の生起(しょうき)・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。(『教行信証』聖典p.240)

と親鸞聖人はおっしゃいます。仏願、つまり阿弥陀如来の本願の真意を納得するまで聞くということです。

弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず(『歎異抄』・聖典p.626)

と教えられますように、すべての人が平等に救われるということの道理を説かれています。

 この仏願を聞くことによって、ほんとうの友に出遇えるのです。ほんとうの友とは肩書きなしでの出遇いです。世間は肩書きによって左右され、優越感、劣等感の狭間で苦悩することが多いようです。人間は本来、尊厳なる生命(いのち)を賜って生きているということにおいて平等なのです。このことを教えているのが仏願です。その阿弥陀如来の本願を聞くことによって、いわゆる真の朋友関係が成立する。この意味において、寺は「出遇いの場」なのです。

さらに寺は「帰依の場」です。帰依とは生の依るところ、死の帰するところということで、ひと言でいえば浄土です。本堂のお荘厳は「方便化身の浄土」と親鸞聖人が言われますように、浄土の仮の姿を表現したのが、真宗寺院の本堂であるわけです。ですから本堂の、特にお内陣は美しく荘厳されているのです。

「お寺に来れば、大人も子ども」というポスターが本山から出ました。子どもは常に生き生きと、実にゴムマリがポンポンはずむように、肩書きにもこだわらず、生命を輝かせて生きています。いわば子どもに帰る場所が寺ではないでしょうか。そのような場を念頭において、寺の維持運営を勧めるのが総代の使命であろうかと思います。

 それにはまず、総代さんご自身が率先して聞法にいそしむことです。

(本多惠/教化センター通信 No166)

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Last modified : 2014/12/09 6:16 by 第12組・澤田見(ホームページ部)