問い

真宗の教えでよく「身の自覚」ということが言われますが、なぜそのようなことが必要なのでしょうか。

(62歳・女性)

答え

 私たちは自分のことを表明するときに、「私自身は……」とか、「自分自身は……」と言います。自分の思いでは何とでも言えるが、自分の身の事実はごまかしがきかないということを承知しているからではないでしょうか。自分自身が明確でないと、何をしたらよいのか、どのように生きるべきかもはっきりしないはずです。

 たとえば道に迷うということは、現在、自分がどこに居るかわからなくなることであって、自分の現在地がはっきりすれば、行く道はおのずとわかるようなものです。ところが、迷った人がいくら考えてもわかるものではありません。道に明らかな人に聞くのが、いちばん賢い方法で、またそれ以外にありません。

 私たちの人生であっても、今、自分自身はどのような状態で、どこに立って生きているのかを確認しなくては、動きがとれないはずです。考えてわかることではなく、やはり、目覚めた人の教えに耳を傾ける以外に方法はないかと思われます。

 「己(おのれ)が分(ぶん)を思量(しりょう)せよ」と、自分自身に言い聞かせ、私たちにも語りかけつつ、法然上人の教えを聞き仏法をよりどころとして、90年の生涯を尽くされた方が親鸞聖人であったと思われます。

 親鸞聖人の教えを指針として生きられた曽我量深(そが・りょうじん)先生が、「凡夫というのは、肉体をもって生きているものです」とおっしゃったそうです。肉体をもって生きているということは、老病死を免れることがないということです。老病死は私たちにとっては嫌なことです。しかし決して免れることの出来ない、身の事実です。病気はともかくも、老死は必然的なものです。

 さらに肉体をもって生きているからには、その肉体を維持し、養育しなくてはなりません。そのためには、ひと言で言えば、殺生(せっしょう)しなくては生きられないということです。動物、植物などの大切な生命を殺さなくては、一日たりとも生きることはできません。

 この身の事実に悲痛感をもったところから、命がけの聞法生活が始まるのです。

(本多惠/教化センター通信 No183)

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Last modified : 2015/03/02 18:24 by 第0組・澤田見(ホームページ部)