問い

先日、念仏を口に出しては称えないという人がいました。そんなことでいいのでしょうか。

(60歳・女性)

答え

 あなたのような疑問を持たれた方は、法然上人や親鸞聖人の時代にもあったようです。法然上人の日ごろの教えを書きとどめ、親鸞聖人が編集された『西方指南抄(さいほうしなんしょう)』に、その事例がありますのでご紹介します。

 ある人が法然上人に、「念仏行者の中に、声に出して念仏を称える人もある。また心に念じて念仏する人もあるが、どちらがよいのですか」とたずねられたとき、法然上人は、「声に出して名号を称えるのも、心に名号を念ずるのも、いずれも仏を念ずることに変わりないことであるから、往生の業にはなる」と答えておられます。

 ただし、「仏の本願は称名をすすめておられるから、声に出した方がよいでしょう。要は、わが耳に聞こえるほどに称えることです」とおっしゃっています。

 ここで注目されることは、まず「わが耳に聞こえる」ということです。名号とは阿弥陀如来の名です。名にはそのものの全身全霊、つまり全精神が表現されています。阿弥陀如来の精神とは、衆生を救うということです。阿弥陀如来が私たちに対して、「おまえは今の生活でほんとうに満足しているか。ほんとうの願いは何なのか」と問いかけ、私たちにほんとうの救いを指し示してくださっているのが名号(みょうごう)なのです。ですから名号を聞くとは、阿弥陀如来の呼び声、すなわち精神(意(こころ))を聞くことです。

 そこで、阿弥陀如来の私に対する誠意に気付き、その感動の表現が称名念仏という、名号を称えるという形をとるわけです。たとえば幼子(おさなご)が「お母さん」と母を呼ぶとき、どのような気持でしょうか。喜怒哀楽すべての表現が、その時どきによって異なろうとも、「お母さん」というひと言によって表現されるように思われます。

 私たちが、今は、亡き人を仏前または墓前においてしのぶとき、思わず声に出すこともあります。阿弥陀如来のお意(こころ)にふれたとき、声に出す出さないは問題ではないでしょうが、心が内にあれば、おのずと形となって表現されることは、当然の成りゆきであろうかと思われます。

(本多惠/教化センター通信 No186)

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Last modified : 2015/03/02 18:18 by 第0組・澤田見(ホームページ部)