
自分に、どうしても生まれた意味や生きる意味があるように思えません。あるというなら、どういうところにあるのでしょうか。
(19歳・男性)

君がどのような家庭県境で生まれ育ってきたかは知りませんが、一般的に言って非常に恵まれた境遇であったか、または恵まれない境遇であったか、そのいずれかであったように思います。いずれにしても、真面目に自分自身を、そして人生を考えておられるように見受けられます。
人間の生き方は三つのタイプがあると思われます。一つは熟慮してから歩く、二つは歩きながら考える、三つは歩いてから考える。
しかし君の場合は、考えて、しかも歩かないで、とまどっているかのように思われます。
まじめな君のことですから、考えてみてください。自分が考えあぐねて立ち止まっていると思っている、その全体が刻一刻と歩んでいるのです。時は流れ、二度と繰り返すことのできない一日一日が過ぎているのが事実なのです。自分の生涯に一回しかない今を生きているのが私たちです。
君は19歳、多感な青春の真っただ中を生きている。新鮮な感受性のアンテナを大切にしてください。多くの生命の雄たけびが聞こえてくるでしょう。
次のようなおもしろい漢詩があります。
雲、雲に入りて雲を見ず
雲より出でて初めて雲を見る
雲、雲に問う、雲答えず。
雲、また雲を知らず
考えさせる詩ではありませんか。蛇足を加えるならば、しかも雲は千差万化、姿を変え形を変えて常に躍動している。
自分自身の存在意味は他人から教えられるものではありません。君は大切な問いを持ったわけです。その課題を生涯の課題として人生を歩んでください。必ずや問いの方から確かな応答がひびいてくるに違いありません。
すべての存在には、それぞれかけがえのない存在意味があることを説かれ証明されたのが釈尊(しゃくそん)の仏教です。幸いにそのことを身をもって生きられた先輩があります。
身の周りには生命を真剣に生きつつある人びと、輝く山川草木が私に語りかけているではありませんか。
(本多惠/教化センター通信 No188)
Last modified : 2014/12/09 6:17 by 第12組・澤田見(ホームページ部)