問い

私は神仏を選ばず、他の人の事も考えて、よくお参りもします。こういう私のどこに問題があるのでしょうか。

(47歳・女性)

答え

 「こういう私のどこに問題があるのでしょうか」とお尋ねになる、あなたの気持に問題を感じます。ご自分では問題ないと思っておられるのに、他人から言われたことを気にしておられるように思われます。自分自身が「これでいいのだ」と納得していれば、なんら問題は無いことでしょう。しかし、そのことが気になるというのは、あなた自身の問題ではないでしょうか。

 人は誰しも確固たる依(よ)りどころと信念を持って生きたいものです。それが曖昧ですと、自分の生き方に自信が持てないものです。かといって自分の信念に固執することは、他人を排除することになります。たとえば現代のイスラム教徒の暴挙はその最たるものです。

 蓮如上人は「一仏(いちぶつ)に帰するは諸仏(しょぶつ)に帰(き)するなり」とも、「神仏を軽うしむべからず」ともおっしゃっています。一仏といえば阿弥陀如来です。阿弥陀如来を心から敬い尊敬する心は、すべての仏、すなわち大日如来とか薬師如来とか、お地蔵さまとか、すべての如来を敬うことになるということです。

 問題はあなた自身が何をよりどころとして、どこに立って神仏を拝んでおられるかということかと思われます。ただ漠然と他の人のことを思いながら、神仏を選ばずお参りしておられる心情がどのようなものかと思われます。

 神や仏を敬うことは大切なことだと思いますが、そのことが自分自身のどのような心情から出ているかということです。その心情が漠然としたものか、はっきりした根拠のあるものかという問題です。

 平易なことで言うなら、自分自身がほんとうに自分の信念に生きておれば、他の人の生き方も、自分への思わくも気にならないはずです。要は自分自身の生きる基点を定め、あとは世の中の習慣に順じて生活することです。

 お互いに主体性をもち、他人の言葉には謙虚に耳を傾け、しかも惑わされることなく、凛として生きたいものです。

(本多惠/教化センター通信 No192)

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Last modified : 2014/12/09 6:17 by 第12組・澤田見(ホームページ部)