問い

息子夫婦は先祖の墓にはめったに参りませんが、ペットの供養には家族で出かけます。何とかならないかと思うのですが。

(68歳・男性)

答え

 息子さんご夫婦は、おそらくペットの生前、ペットを非常にかわいがっておられたのでしょう。そのペットに対する思いが、ペット亡き今も胸にとどまり、ペットの供養に心がけておられるに違いありません。それはそれで尊いことであろうかと思います。たとえ動物であっても尊い生命を生き、そして生きる縁つきて死んでいったのです。生命は絶対的なもので、何にもかけがえのないものです。

 ところで、あなたが「何とかならないか」と思われるのは、どうしようと思っておられるのですか。おそらく、息子さんたちが、ペット以上にご先祖を大切に思い、ご先祖に対して敬意をもってお墓まいりをしてほしいと思っておられるのでしょう。

 しかし、どうでしょうか。あなたが先祖を思う気持ちと、息子さんたちがペットを思う気持ちと考え合わせたときに、どのような違いがあるのでしょうか。たしかに先祖は自分を生み育ててくださった方であって、先祖なくして今の私はありません。しかし私たちは多くの生命ある者と共生しているのです。生命に軽重のあろうはずはありません。

 仏教では「一切衆生(いっさいしゅじょう)悉有仏性(しつうぶっしょう)」と教えています。さらに「山川草木(さんせんそうもく)悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」とも言われています。生きとし生けるものは言うに及ばす、この世に存在するものすべてが尊い生命の現れであると教えているのです。

 息子さんたちがペットをいとおしんでおられる気持ちは大切にしなくてはならないと思います。あなたご自身も息子さんたちと一緒にペットのお墓に手を合わされたらどうでしょうか。要は尊厳なる生命に対する敬虔なる感情です。先祖にしましてもペットにしましても、いのちを賭して、遺された私たちに何を語りかけているかを、心の耳を澄ませて聞くことが大切かと思います。

 死は無言の遺言です。そこに耳を傾けるとき、限りなく聞こえてくる大切な事柄があるはずです。

(本多惠/教化センター通信 No193)

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Last modified : 2014/12/09 6:17 by 第12組・澤田見(ホームページ部)