問い

親鸞聖人の言葉に、亡き父母などの供養のために、念仏したことはないとあります。しかし真宗でも法事などを勤めます。なぜなのですか。

(40歳・女性)

答え

 親鸞聖人のこ在世当時の仏教界でも先祖供養ということが仏教徒の間で大切にされていたようです。善根を積んで善果を得る、いわゆる善因善果、悪因悪果という考えが一般に信じられていて、父母の死後、父母を想う気持の現れとして追善供養ということが行われていたのでしょう。

 仏教では供養ということは大切なこととして教えています。しかし、その供養ということの意味の領解に大きな問題があるのです。

 現代でも追善供養ということで仏事が行われている宗派もあります。追善とは善根を追加するという意味で、亡くなった人が生前に積んだ善根が少なくて、死後苦しんではいないだろうかと案じて、善根を追加してあげようという気持で追善供養が行われているようです。

 お念仏には、無上甚深(じんじん)の功徳利益(くどくりやく)があると教えられています。親鸞聖人はそのうえで、お念仏を称えて自分の父母の、いわゆる冥福を祈る、そのような思いで念仏を称えたことはないと言われます。私たちはそこで、親鸞聖人がどのような思いで念仏を称えておられたのか。父母の供養のために念仏したことはないとおっしゃって、私たちに何を語ろうとされたのか。そのことについて思いをいたさなくてはならないと思います。

 真宗における法事の意味ですが、それは決して追善供養ではありません。あくまで法事、つまり仏法の事業ということです。亡くなった人を偲びつつ、仏教を聞くということが本命です。

 仏教とは釈尊の教えです。釈尊は八万四千の法門とも言われるように多くの経典を残しておられます。しかし有名な言葉として、天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)という教えがあります。これは生命の尊厳性と、生まれていることの感動を表現されたものです。先だって亡くなっていかれた方が文字通り命がけで、遺された私たちに何を語っておられるかを偲びつつ、仏教に耳を傾けることこそが真宗の法事の意味であろうかと思われます。

(本多惠/教化センター通信 No198)

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Last modified : 2017/02/28 20:32 by 第0組・澤田見(ホームページ部)