問い

真宗では「冥福(めいふく)を祈る」という言葉は使わないと聞きました。なぜですか。

(42歳・女性)

答え

 よく弔電などで耳にする言葉です。冥福とは、冥は、冥土(めいど)、死後の暗い世界をいい、福は幸福、死後の暗い世界の幸福ということです。これは人が死ねば、生者に禍(わざわい)をおよぼす怖くて暗い世界に行くという死生観です。残った者としては、せめてその暗い世界での幸せを願っていますよと、「冥福を祈る」のでしょう。

 古来より私たちは、死や死者を恐れてきました。典型的なのは、死者に石を抱かせた縄文時代の屈葬(くっそう)です。遺体にとりつく悪霊を閉じ込めるためといわれています。そんな死者に対する恐れは、葬儀に参列すると塩をまいて清めたり、中陰(ちゅういん)が三ヵ月にまたがると死が身につくといって満中陰(まんちゅういん)を切り上げたりという形で続いています。

 しかしよく考えてみますと、身近な人の死を目のあたりにして、悲しさや愛しさを感じながら、実は深いところに亡き人を恐れ、暗い世界に追いやるような根性をもっているということです。なんと愚かなことなのでしょうか。しかもその根性は自分自身もまた暗い世界に行くことで終わる人生を暗示しています。そういうあり方を生死(しょうじ)に迷うといわれてきました。

 親鸞聖人は29歳の時、法然上人をとおして速やかに生死を離れるお念仏の教えをいただかれました。「生けらば念仏の功つもり、死ならば浄土へ参りなん。とてもかくても此の身には、思いわずらう事ぞなきと思いぬれば死生ともにわづらいなし」(法然伝)。死に代表される都合の悪いものを嫌い、生に執着する死生観を超えて、生も死も私のことだと受け止め、生を終えれば仏様の浄土に還(かえ)らせていただくお念仏の道に入られたのです。

 「亡くなりし 我が子はよき 善知識(ぜんじしき)」、子供の死を通して、人生は何だったのか。親としてどうだったのか、そんな問いをかかえて聞法された方なのでしょう。生死に迷う私であったと気づかれた時に、亡き子が導いてくれたのだといただかれたのでしょう。亡き子は冥(くら)い私に気づかせる仏様だったのです。

 光の存在となってくださるような亡き人に、「冥福を祈る」ようなことはないのです。

(本多惠/教化センター通信 No209)

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Last modified : 2017/02/28 20:31 by 第0組・澤田見(ホームページ部)