問い

南無阿弥陀仏をお念仏と言ったり、お名号(みょうごう)と言ったりします。何か違いがあるのですか。

(28歳・男性)

答え

 とても大事なことを質問くださいました。結論から申しますと、お念仏というても、お名号というても別のことではありません。南無阿弥陀仏の六字のおこころがあらわされているのです。

 まずお念仏ですが、南無というのは帰命(きみょう)ということです。「私は、南無阿弥陀仏に帰命していきます」という意味です。それは阿弥陀仏の本願を憶い起こすことです。

 私たちの生活は、自分の知識、経験をよりどころとして自分の都合のよいことは受け入れ、都合の悪いことは受け入れないわけです。それは、必然的に思い通りにいかない現実に直面することになります。自分の知識や経験も間に合わないわけです。それは、苦悩というかたちで阿弥陀仏がはたらいておられるわけです。阿弥陀仏は、私たち苦悩の凡夫(ぼんぶ)をあわれみたまうのです。
 そこに、「お念仏もうさんとおもいたつ心」がおこってくるのでしょう。阿弥陀仏の本願のはたらきに遇うて、自己中心のありかたが悲しまれてまいります。それが、阿弥陀仏に帰命するということです。

 次に、南無阿弥陀仏はお名号であるという意味は、阿弥陀仏の本願が声となって、私たち凡夫に回向(えこう)してくださることをあらわします。仏の方から「われは南無阿弥陀仏なり」と名乗り出てくださればこそ、われわれはそのみ名を称えることができるのです。

「誓願の不思議によりて、たもちやすく、となえやすき名号を案じいだしたまいて、この名字をとなえんものを、むかえとらんと、御約束」(『歎異抄』)くださるわけです。たった六文字の言葉ですから、だれでも、どこでも、どのようなときにでも称えられます。まことに有り難いことではありませんか。
 ところで、親鸞聖人は和讃(源信僧都)に、

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとえに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたもう

とうたわれます。
 われら煩悩具足の凡夫にとっては、お念仏以外のどんな教えや修行によってもたすかることはない。唯一すくいの道は、ひとえに如来から回向されたお念仏をとなえることでのみ、お浄土へ生まれることがかなうのだと教えられるのです。

み仏を わが呼ぶ声は
み仏の われを喚(よ)びます
み声なりけり

 教育者であり、念仏者でもあった甲斐和里子さんの詩です。
 南無阿弥陀仏の六字にこめられた阿弥陀仏の本願のおこころを、味わってください。

(教化センター通信No.216)

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Last modified : 2015/02/11 23:09 by 第0組・澤田見(ホームページ部)