問い

真宗では、お寺の本堂にもご門徒の仏壇にも、お釈迦さまの木像などが安置されていません。それはなぜですか。

(40歳・男性)

答え

 以前、初めて東本願寺にお参りされた方から、「お釈迦さまはどこにもおまつりされてないんですね」と、同じ質問をされたことがあります。実際のところ、仏教はお釈迦さまから始まったというのが一般的な受け止めですし、また多くの経典がお釈迦さまのご説法として伝えられています。それなのに、お寺やお仏壇にお釈迦さまの仏像が安置されていないことに疑問を感じられることは、むしろ自然なことなのかもしれません。

 けれども真宗では、ご本尊としてお釈迦さまではなく、木像・絵像・あるいはお名号の阿弥陀仏がまつられます。当然そこには深い意味があります。

 確かにお釈迦さまは私たち仏教徒にとって永い間、偉大な存在であり大きな目標であり続けました。けれどもお釈迦さまは、今日の私たちから遠くへだたったお方であることも事実です。そこに一つ目の問題があります。そしてもう一つは、仏教の教えを深く学ぶ根気もなく、修行などとは程遠い生活をしているという、今日の私たち自身の問題です。この二つの問題は、今日の私たちだけの問題ではなく、これまでの多くの仏教徒にとっての課題でもありました。

 「阿弥陀仏」には、光明無量(こうみょうむりょう)・寿命無量の二つの意義が含まれています。つまり「阿弥陀仏」という名のりは、どこに生まれ合わせようとも、いつの時に生まれ合わせようとも、仏の教えに出あうことができるのだという宣言でもあるのです。先の二つの課題に応えた名のりとも言えます。

 お釈迦さまが「無量寿経」によって阿弥陀仏の本願をお説きになったのは、釈尊を目標として外に立てて追い求めるのが仏教ではない。むしろ私の所にすでにとどいて、私を支えてくださっている仏の世界(心・願い)に気づくことこそが仏教であると示されているのです。私たちが念仏申すところに、阿弥陀仏から深い願いがかけられていた私であったという気づきがあたえられます。

 それはまた、その願いに背を向け続けていた私の発見でもあります。そのような気づきと発見こそが、仏の世界との出あいなのです。そこに、釈尊の後の世の仏教徒の仏道の虚しくないことを表現した、真宗のおまつりの積極性があるように思います。

(教化センター通信No.217)

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Last modified : 2015/02/11 23:21 by 第0組・澤田見(ホームページ部)