問い

仏教では、人が亡くなって法名や戒名をいただきますが、別に必要のないもののように思うのですが。

(21歳・男性)

答え

 法名は、実は生前中に本山やお寺で帰敬式(おかみそり)を受け、いただくものなのです。ですから、本来は亡くなってからいただくものではないのです。

 帰敬式とは、仏と法と僧の三宝(さんぽう)に帰依し、お釈迦さまの弟子になる儀式です。私たちは帰敬式を受けて法名をいただき、苦悩の衆生を救おうとする南無阿弥陀仏の法に目覚められた仏を、その教えである法と、仏法を求める人たちのあつまりである僧(サンガ)の、この三つを宝として生きる者になるのです。ですからお釈迦さまにちなみ「釈(しゃく)」の字を上に冠した法名をいただくのです。生前中におかみそりを受けられなかった場合は、やむをえず枕経の前にいただくのです。

 次に、俗名とあわせて法名をいただくのは、『大経(大無料寿経)』の、阿弥陀仏の修行時代の物語にそのわけを見ることができます。ある国王が、世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏の説法を聞いて感動し、本当の道を求める心を起こされます。そして、国を棄(す)て王を損(す)てて修行僧となり、法蔵菩薩と呼ばれるようになるのです。(真宗聖典p10)

 財も位も言うことのない国王は、まざにこの娑婆世界での頂点をあらわす名ですが、なぜ国を棄て王を損てられたのかということです。私たちはこの世界で、より高い地位、より豊かな生活と、上を目指しています。そしてそこに自分の居場所を確保しようとします。しかしこのような日頃の私たちのあり方は、老いたり病に倒れたりするとたちまち居場所を失うものです。そして、自分で自分が認められなくなるなのです。このような国王的なあり方では、身の事実である老病死に、仕方がないとあきらめるよりほかないのです。そこで、”俗名の私”を離れ、身の事実を行ききる道に立つ”法名の私”の大切さを表すのが帰敬式(おかみそり)なのです。

 親鸞聖人は生死(しょうじ)出ずべき道をただ念仏といただかれました。老病死に行き詰まらない道を、お念仏に見いだされたのです。このお念仏との出会いの中で、「老いるということは生物学的には衰えるということだが、人間的には成熟したということだ」との先達のうなずきも出てくるのです。

 このお念仏の伝統の中で、私もまた仏法に目覚め、本当にこの身を行ききる者になろうという名のりが、実は法名なのです。この法名の大事さを知り、帰敬式を受けて歩み出すことが私たちに願われているのです。

 ちなみに戒名とは、戒律を受けた人に与えられる名です。真宗には受戒(じゅかい)ということはありませんので用いません。

(教化センター通信 No218)

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Last modified : 2015/03/02 18:14 by 第0組・澤田見(ホームページ部)