問い

歴史の授業で、鎌倉時代の法然や親鸞という方が念仏を称えたため流罪になったと聞きました。しかしなぜ念仏を称えたくらいで流罪になったのですか。

(21歳・男性)

答え

 それは念仏が生きてはたらいていたからです。

 親鸞聖人は29歳の時、法然上人に会い、「雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願に帰す」(真宗聖典・399頁)と回心(えしん)し、専修念仏(せんじゅねんぶつ)に生きる人生が始まります。

 そして同じように、「ただ念仏して、弥陀(みだ)にたすけられまいらすべし」という法然上人のおおせに、それまで念仏や仏法とは無縁のものとされていた一般の庶民をはじめ、貴族や武士、僧侶なども法然上人の吉水(よしみず)教団にたくさん集うようになりました。それは、どのような世間的な権威をも必要としない、老若男女が共に同朋(どうぼう)として集う念仏の僧伽(さんが)でした。

 その新しい念仏者の集団に対し、当時の延暦寺の僧たちは、これまでの仏教教団のあり方や世の秩序を乱すものとして念仏の禁止を訴えたのでした。また奈良の興福寺も、法然上人やその弟子たちの罪を数え上げて、処罰するよう朝廷に迫ったのでした。

 その頃、後鳥羽上皇が寵愛していた女房(女官)たちが無断で法然上人門下の念仏会(ねんぶつえ)に加わったことが知れ、それがきっかけとなって、上人の門弟四人が死罪に、上人はじめ八人が流罪に処されたのでした。流罪には近流(こんる)、中流(ちゅうる)、遠流(おんる)があり、法然上人は土佐(高知)に、親鸞聖人は越後(新潟)にと、遠流に処されたのでした。

 直接の原因は後鳥羽上皇の怒りでしたが、奈良、京都の仏教教団にとって吉水に集う多くの念仏者の存在は、決して歓迎すべきことではなかったと思われます。

 あなたはまだ若く、これからいろんな問題にあうことでしょう。ことに真実に生きようとすれば、非難や中傷は必ずあります。その時には、念仏を称えることを禁止され、流罪に処されたことを法難として受け止め、生きる力にされた親鸞聖人のことを思い起こしていただきたいと思います。

 私たちは問題になることを恐れ、何もせずにじっとしていればそれなりに平穏に過ぎていくでしょう。しかしそれでは自己保身、自分さえ安全であればよいという、まことに身勝手なことになるのです。そうではなく、積極的に真実に生きようとするならば、そこに問題が提起されます。その時そのことを仏法に聞きたずねることをどうか忘れないでください。

(教化センター通信 No222)

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Last modified : 2015/03/02 18:05 by 第0組・澤田見(ホームページ部)