問い

お念仏ひとつで、本当に浄土に行くことができるのですか。

(55歳・男性)

答え

 浄土に行けます。法然上人の遺言とされる

 ただ、往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思いとりて申す外には、別の子さい(細)候わず。『一枚起請文』真宗聖典p962

が浄土教の本義です。

 しかし一方で、『ただ、念仏』に頷かない我々人間の生死(しょうじ)の事実があります。
<こんな易行で大丈夫だろうか? 学問や修業を経ずして『ただ、念仏』は、話が上手すぎる。厳しい精進生活が無理だから、どうしようもなく念仏なのか? その上に『疑いなく往生する』と信じ切ることは、非常に難しい……>

 実はこうした<人間の思いの立場>からの『ただ、念仏』の信心への疑いは、法然・親鸞両師当時の吉水念仏教団への批判の文言にも語られています。

 宗祖と同年代の聖道門の碩学<明恵(みょうえ)>は、

 称名一行は劣根一類のために授くるところなり。汝、何ぞ天下の諸人を以て、皆下劣の根機となすや。無礼の至り、称計すべからず。(『摧邪輪(さいじゃりん)』)

と述べて、称名念仏は劣根一類、すなわち最も劣った最後の頼みの綱であるとして、天下万人に『ただ、念仏』を勧めるのは無礼で話にならない……と切り捨てます。これが当時の聖道門仏教からみた称名念仏への代表的見解であり、そのため法然・親鸞両師をはじめ吉水念仏門は徹底的に弾圧を受けたのです。

 しかし実はこうした念仏の位置づけは、念仏生活にご縁を頂いている我々自身の念仏了解にも、それに同調するところがありませんか?

 念仏を我が心・我が努力で生み出す行為として捉える限り、「劣根一類のための最後の手段」についえます。淋しいわたしがなんとか頑張って、せめて念仏して、自分が思い描く夢の世界としての浄土へ行きたい……という物語の、自前の道具・手段でしかありません。

 宗祖<親鸞>は語られます。

 この行は、大悲の願より出でたり。 真宗聖典p157

 称名念仏の行を、如来自身次のように宣言されます。

 我、仏道を成るに至りて、名声(みょうしょう)十方に超えん。究竟(くきょう)して聞ゆるところなくは、誓う、正覚(しょうがく)を成らじ。真宗聖典p25

 称名念仏は、「全ての衆生を救うぞ。全ての衆生にこのわたしの呼び声が聞こえなければ、わたしは仏とは成らない」という如来の呼び声であり、同時にその声への「はい」というわたしの応答です。

 我が心に浮かび我が声に出す『念仏』への疑い・計らい・見繕いの自力の心の底に、「まかせよ。そのまま来い」という如来の声・いのちの願いを聞き続ける日々が、往生の生活です。

(教化センター通信No.245/由上義孝)

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Last modified : 2015/02/11 22:53 by 第0組・澤田見(ホームページ部)