問い

 私は結婚して十年になります。二年前から私の両親と同居するようになり、なんとか嫁姑の仲もうまくいっていました。ところが先日、家族で墓のことが話題になったとき、家内がなにげなく「私が死んだら実家の墓に入れさせてもらいます」と言ったことから嫁姑の仲に亀裂が入りました。家内は「死んでまで姑と一緒にいるのはこりごりだ」というのです。しかし、姑である母は「嫁いで来た以上は家の墓に」と言い張ります。墓に対する知識がない私は、どうしていいかわかりません。やはり母の意見が正しいのでしょうか。また、家内の言うことでもよいのでしょうか。

(豊中市・会社員・35歳)

答え

 この間題は平素聴聞しているか、仏法など聞いたことがないか、ということで自然に出てきます。仏法を聞いていないと、世間の俗信に迷わされて、ただ墓にだけ固執して、いさかいのもとをつくり出すことになるのです。墓はあってもよし、なくてもよし、そこに入れてくれてもよし、入れてくれぬでもよし、そういう墓に捉(とら)われぬ生き方のあることに気づいてほしいのです。

 お姑さんが自分の家に嫁いできたものだから、自分の家の墓に入れるというのも、世間体を考えたもので、もし入れなかったら、世間からどういわれるかわからない、という思惑からなのです。また、お嫁さんも生きていたときのいざこざが、お墓の中まで続く、こんな嫌なことはないというのも、お嫁さんの気ままで、自分の死んでからの行く先が、お墓と思っているから出てくる発想なのです。しかし、自分の一生の終りが、お墓とはあまりにも淋しいではありませんか。昔の人は死者が迷い出さぬようというところから、石牢としたのです。あの暗いジメジメしたところ、空気も通わないし、虫も涌いてくる、その暗冥処が自分の死後、住むところと思っているのでしょうか。悲しいですね。

わたしは墓のなかにはいない
わたしはいつも
わたしの詩集の中にいる
だからわたしにあいたいなら
わたしの詩集をひらいておくれ
妻よ三人の子よ
法要もいらぬ墓まいりもいらぬ
わたしは墓の下にはいないんだ
虫が鳴いていたら
それがわたしかも知れぬ
鳥が呼んでいたら
それがわたしかも知れぬ
わたしはいたるところに
いろいろな姿をして
とびまわりているのだ
墓のなかなどに
じりとしていないことを知っておくれ

 坂村真民さんの詩です。(誤解されてはならないので書き添えますが、法要を単なる追善供養のためにつとめるのなら、要らぬといっているのです)

 しかもその墓石には殆んど「先祖代々」と書かれたり「法名」が刻まれています。わが家と関係ないものは、一切入れぬと拒絶しているようです。本来、真宗では「南無阿弥陀仏」あるいは「倶会一処」と記すのです。「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀仏に南無するものになりました、ということであり、「倶会一処」とは、倶(とも)に一つ処で会わしてもらうということで、いかなる人、怨んだものも怨まれたものも、分け隔てなく会える世界であることをあらわしているのです。

 このことを御縁として、わたしの本当の行く先はどこなのか。暗冥処としか思えないお墓にいつまでも、固執していてよいものかどうか。いま起っている問題を他人ごととせずに、自分の問題として考えて下さい。

(松井慧光・「南御堂」もしもし相談室より)

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Last modified : 2014/12/09 6:17 by 第12組・澤田見(ホームページ部)