問い

 ご近所で親しくしている人ですが最近、ある宗教団体に入信されまして、私にも講演会や会合に出席してはとすすめてこられましたので何回か参加いたしました。参加して感じたことは非常によい雰囲気で、世界平和の話やら、自然食品の話やら、ためになる話ばかりです。また今まで通りお寺さんを大切にして先祖も大切にしたらよいが、それとは別に自分の仏さまを本部から頂いていつも肌身離さず持っていればよいとおっしゃいます。姑は反対していますが、お寺さんでは聞けない話も聞けますし、別にお寺の檀家を離れるわけでもないのでかまわないような気もします。このまま参加し続けてはいけないでしょうか。

(大阪市・主婦・38歳)

答え

 確かにあなたの年ごろのご婦人たちを、引きつけるような話をされる会は各所にあり、そこから進んでその会に入り、すすめられるままにそこの本尊まで身に付けようという気持ちにまでなられるプロセスは、一応わかります。と言って長年のお寺の檀家を離れる訳でもないし、先祖を大切にする心持ちに変わりはないとのこと、これは嬉しく思います。今まで住職として、お参りはしていても、忙しいということを理由に、一言の仏法も話すことをしなかったお寺側の一人として、その責任を深く感ずる次第です。

 しかし、ここで考えて欲しいのです。そういう会のお話は「よりよく生きる」ことを問題にしていても、「あなた自身が生きて甲斐のある生き方をしているか、そしてまた、死んでいけるか」ということを、少しでも考えさせてくれるかという点なのです。つまり私自身の生死の問題にどこまで答えてくれているかなのです。

 世界平和の話を聞いて、ためにはなりますが、死んでいけますか。自然食品の話を聞いて、健康になられたか知りませんが、いかに健康であっても死なねばならない身の事実の解決はつきましたか。さまざまな教養は身に付いたか知りませんが、奮い立つ歓びとなり、真実を求めて立ち上がるご縁となっていったでしょうか。

 あなたの人生は、今なんの問題もないのです。恐らく世間でいう幸福な家庭なのです。もち論、一つや二つは不足はあるでしょうが、満ち足りている方が多いものですから、取り上げる程のこともないのです。

 そういう時人間の眼は、外に向いています。ところが一つ歯車が狂って破綻が起こると、今まで自分の関心を持っていたことが、実は何一つ自分の力にならなくなってくる。その時、人間の眼は初めて自分自身に向けられてくるのです。こういう問題に何故出会わなければならないのか。恐らく雰囲気一つで聞いていたものが、如何に次元の低いものであったかがわかってくるのです。と言ってそれらの話を悪いと言っているのではありません。ただ話は聞かれても、そこの本尊を身に付けるのは感心しません。私たちにとって真宗門徒であるあかしは南無阿弥陀仏ただ一つで、それ以外一切のお札もお守りも、他の本尊であっても身に付けるものを、必要としないのが私たちの生きる姿勢なのです。

(松井慧光・「南御堂」もしもし相談室より)

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Last modified : 2014/12/09 6:17 by 第12組・澤田見(ホームページ部)