問い

 2年ほど前から時々、亡くなった主人が夢枕に立ちます。はじめは夢を見ているのだと思っていましたが、よくそういう事があるので友人に話を聞いてもらったところ、主人はまだ成仏していないのかも知れないというのです。というのも、主人は5年前の夏に、同僚の不注意から起きた事故で、建設現場で亡くなりました。何も言い残せず、きっと無念の死であったと思うからです。
 お寺さんにいうと迷信だといわれましたが、やはり主人は成仏できないで迷っていて私に何か言いたいのかも知れないと思えてなりません。どうすればよいのでしょう。

(貝塚市・主婦40歳)

答え

 御主人が同僚の不注意によって、事故死されたということは、まことに痛ましい限りで、お悔やみの言葉もございません。長年苦楽を共にして「今日」という日を、築き上げてこられただけに、さぞ無念の思いをなされたことでございましょう。

 私なども、親しくしていた人が、風邪をひいて入院し、翌日その病院で死亡したと聞いたときは、やはり大きなショックで、夢に見ることもありました。夢は内臓の疲れからといいますが、あながちそうでもなく、御主人の事故死のことや、遺体の損傷を見られたことが、深く心の座を占め、夢を見られることになったのだと思います。

 さあそこで、友人に聞いたら、主人は成仏していないと言う。ちょっと待って下さい。御主人の事故死と、成仏するとかしないとかいうことは、何の因果関係もありませんよ。つながりはないということなのです。しかし、もう一つ大事なことがあります。あなたの友人という人は、あなたの亡くなられた御主人の死後のことまで、どうしてわかるのですか。明日のことさえわからないのです。まして他人の死後のことまで、成仏していないなどと、どうして言いきれるのですか。

 人間は自分のことさえわからないのですよ。自分はこんな人聞だと、思い定めていても「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄)というお言葉もあるくらいです。その時その時の条件次第で、何をするかも知れぬということです。

 その友人に一つ問うてみて下さい。「あなたは自分の死後のことはわかりますか」と。おそらく戸惑われるのに違いありません。

 人間の死にざまは実にさまざまです。病死から事故死、災害による不慮の死と、数えあげたら限りありません。

 親鸞聖人の智慧のおことばに

臨終の善悪をばもうさず、信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚(しょうじょうじゅ)に住することにて候うなり(末灯鈔)

とあります。人間の死にざまについて軽々しく、善いとか悪いとかいってはならぬということです。

 娑婆はいつどんなことで、どんな死に方をせねばならぬかも知れぬ。いつどうなってもよいように、仏法を聞いて揺ぎない信念を確立してくれるようにと、何度も夢にまで現れて、奥さんに御催促をしておられるのです。そのことに驚きを立て、「ああ、そうであったのか、なんという尊いことを知らせて下さったことか」と気付いて、奥さんが仏道を歩みはじめられたら、「なる程、主人はこのことを知らせてくれた仏さまであった」と、両手が合わされてくるのです。

(松井慧光・「南御堂」もしもし相談室より)

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Last modified : 2014/12/09 6:17 by 第12組・澤田見(ホームページ部)