平野修師が病床に伏される直前まで続けられた未完にして最後の大講義、いよいよ刊行!
大阪教区教学研修院の基調講義として8年間、全46回にわたり行われた「化身土巻講義」を全5巻にわけて収録。「化身土巻」の内容から、仏教の歴史、そして親鸞聖人のみ教えを徹底的に俯瞰し、私たち自身に問いを投げかける平野修師の思想の集大成ともいえる書です。
どの回の講義においても平野先生の念頭には常に、親鸞聖人が出遇い、誕生し、そしてその生涯をかけて顕かにしようとされた本願念仏の仏教があったのではないでしょうか。平野先生がお亡くなりになって二十五年が経とうとする今日、この講義にひとりでも多くの方が触れてくださることを切に念願するものです。
(第1巻編集後記・高間重光)
第2巻(2022年2月1日発刊)
好評発売中!
ご注文は大阪教務所(TEL06-6251-4720/FAX 06-6251-4796)または、osaka-shuppan@higashihonganji.or.jpまで。
次巻は2023年冬頃刊行予定
目次
第一一講 曇鸞から善導における信の展開
第一二講 衆生の発起する願生心
第一三講 理想と現実との認識から出発
第一四講 善導独明の仏教史観
第一五講 観経の二義
第一六講 選択本願を宗とする三経
第一七講 浄土の要門
第一八講 真実報土の真因
第一九講 真宗の教相と仏教の歴史
編集後記全文(浅野 景司)
一九八〇年以来、大阪教区教化センターでは、時代社会から教団に問われている大きな課題としてあった、同和・靖国問題に学ぶスタッフ学習部門を設けて活動してまいりました。
その活動の中から見えてきた「浄土と国家」をテーマとして、一九八五年二月十六日に平野修師を招き、「浄土の思想から見えてくるもの 真宗と靖国」を講題に公開講座を開催しました。そして一九八五年九月から一九八七年七月まで『化身土・末巻』の講義をしていただき、難波別院から『鬼神からの解放』として出版していただきました。
教化センターは、本夛惠氏を主幹に迎え、一九八七年一月一日に新発足し、同年七月から、廣瀬杲師の「教行信証総説」、平野修師の「教行信証化身土巻」を基調講義とした大阪教区教学研修院が始まりました。これにより、一九九五年三月まで四十六回の平野修師の講義を受けることができました。
そして、講義のテープ起こしをして、『南御堂新聞』の教化センター面へ抄録を載せたり、教化センター紀要『生命の足音』に講義録を載せるため、何度もテープを聞き 直したり、平野先生からの朱の入った原稿や、出稿したゲラ刷りを読み直し、何度も何度も目にしていたにもかかわらず、今回読み直していると、こんなことをおっしゃっておられたのかと、まるで初めて読むかのような感覚でした。いかに自分の中に入っていなかったのか。聞いたつもりに 、読んだつもりになっていたことを思い知らされる羽目になりました。
研修院の講義の後、平野先生はほぼ毎回研修院生等と共に食事に行き、そこで様々なことを語り合われました。講義の時とは違い、にこやかに時には厳しく語られていました。ある時誰かが、「真宗聖典がなかなか読めません」と言うと、先生は、「真宗聖典を読む時は自分なりの結論をだしながら読んでいき、分からなくなったらまた最初から読み直します」とおっしゃいました。それは誰もがしている、あたりまえのことだといわれているような気がしました。
帰り際には、 いつも参加者からの贈り物である山葵を一本持ってホテルへ向かわれ た姿を思い出します。
二〇二二年一月
「平野修師講義集」編集実行委員会 浅野 景司
第1巻(2021年2月1日発刊)
A5上製本/376ページ
頒価2,300 円(送料別途)
目次
第一講 化身土巻を読む視点
第二講 題号と標挙
第三講 権実・真仮の分判
第四講 方便化身の浄土
第五講 願往生心の内省
第六講 経典のもつ二重性
第七講 逆縁興法
第八講 顕彰隠密の義
第九講 別意の弘願
第一○講 定散の心と念仏の信
編集後記全文(高間 重光)
本書における平野修先生の『教行信証』化身土巻講義は、大阪教区教学研修院の基調講義として一九八七年九月から一九九五年三月まで隔月ごとに四十六回にわたり講義されたものです。思いがけずも最終講義となってしまった第四十六講は、三願転入の文に続く自釈のところで終わっています。
毎回の講義は、まずその回に読もうとする箇所がどのようなテーマを持っているのか、また先回の内容とどうつながっているのか、さらにはその内容が『教行信証』各巻とどのように関連しているのかに触れた上で、その回に読もうとしている自釈・引文の言葉に丁寧にあたっていかれました。したがってその講義内容は、単に化身土巻だけにとどまるものではなく、『教行信証』全体を視野に入れたものでもありました。そのような平野先生の講義スタイルは、全体を学べば文言が読めず、文言を学べば全体が見えてこないという私たちへの配慮であったのかもしれません。
そして、聖典を学べば、その言葉の対象的な学びにとどまり、自分自身を欠落させてしまう私たちに対して、第六講では、
事細かに『教行信証』の言葉を詮索することでその意味を明らかにしようとしますと、非常に教理的になってきます。それは『教行信証』の中に真宗があると考えるからです。『教行信証』は、真宗・仏教とは自身が成就するという在り方である、と教えています。『教行信証』を文字の上で理解したからといって真宗が分かるということではないでしょう。
と話してくださっています。
また、浄土真宗においては要となる事柄でありながら、私たちに容易に明確になりえない「信心」について第四十一講では、
「専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず」。この大慶喜心というのは『教行信証』の中での使い方からすれば、信心を現す言葉です。信心ということで親鸞が表そうとする問題は、自己自身ということです。仏・如来より証明された自分自身が信心です。
と具体的に表現してくださっています。
また蓮如上人五百回御遠忌を控えての時期でもあった当時、その教えについてもしばしば触れられておられます。第三十六講では、
蓮如は『教行信証』をよくよくお尋ねになられた。そしてそこに行と信の事柄をはっきり了解なさった。その表現が「仏たすけたまえ」という言葉です。我われの方が「たすけたまえ」を、あてもないことを頼む行だと考えてしまうのです。しかしそれは、行ではなく信を表す言葉です。このように、実に深い『教行信証』の了解があって『御文』ができていると理解されるところが随所に見受けられます。
と講義されています。また当時の様々な社会事象にも触れられて、第四十五講では、渦中になったオウム真理教の問題についても話されています。
そして、結果的には最終講となった第四十六講を目前にして、三願転入の文を内容とした第四十三講では、
「ここをもって、愚禿釈の鸞」という言葉ですが、「ここをもって」というのは、十九願・二十願が意味するところの「わが力でわが身をたすけることはできない」というこころが了解できたと。その了解できたことによって生まれ出るものが「親鸞」という名です。もっと言えば、仏の願に触れて生まれ出るものは、自分自身である。
と講義されています。
このように、この第四十三講に限らず、どの回の講義においても平野先生の念頭には常に、親鸞聖人が出遇い、誕生し、そしてその生涯をかけて顕かにしようとされた本願念仏の仏教があったのではないでしょうか。平野先生がお亡くなりになって二十五年が経とうとする今日、この講義にひとりでも多くの方が触れてくださることを切に念願するものです。
二〇二一年二月
「平野修師講義集」編集実行委員会 高間 重光
Last modified : 2022/04/01 0:01 by 第12組・澤田見(組通信員)